21世紀COEプログラムによる活動記録

2003年度 第3回研究会

日時: 2004年3月6日
場所: 同志社大学 今出川キャンパス 光塩館
タイトル: イスラームと一神教の展開
講師: 鎌田 繁 (東京大学東洋文化研究所)
要旨:
一神教と多神教をめぐる従来の議論は、宗教を見る視点において、その宗教において「神」と呼ばれるものが一かそれ以上かという数という面に着目するものであった。しかし、そうした客観的比較が成り立つのは、「神」の語によって表象されるものが同じであるという仮定においてのみである。それゆえ、日本的特殊環境において「神」によって表象される本居宣長の述べるような「尋常ならずすぐれたる徳ありて畏き物」は、日本語ではユダヤ教、キリスト教、イスラームの「神」と訳される世界の創造主とはまったく異なっている。そうであるなら比較は恣意的、主観的なものとならざるをえない。進化論的な最高段階の含みを持つ西欧の一神教理解も、また近年の日本における多神教の寛容性を称揚する議論も、ともすれば自己肯定の言説に陥りがちである。そこでこの発表では一神教と多神教という問題設定に代る視座の提示を試みる。
イスラームは、先行するユダヤ教、キリスト教をそれぞれエズラ、イエスを神の子とすることによって多神崇拝に陥っているとする。またイスラーム以前のアラブは最高神としてのアッラーを知りながら、アッラート、ウッザー、マナート、フバルなどの偶像神をアッラーと人間の仲介者と考えていた。
イスラームの神理解には、a.立法者、b.信仰内容の提示者、c.人間に内在する神、という3つの側面がある。行動の規範を定める立法者としての神に対して、人間は主人と奴隷の関係に立つ。信仰内容の提示者の神の教える神は、世界の外にある神であり、人間を超え、接点をもたない超越性である。人間に内在する神は、神秘主義の体験知の対象であり、世界と一体となった神である。
この最後のイスラーム神秘主義、「私は真理(神)である」と述べたハッラージュ(922没)に見られるような自己と神のみに専心する「排除的exclusive」神秘主義と、世界の全てを神の顕現と考えるイブン・アラビー(1240没)の存在一性論のような「包摂的inclusive」神秘主義の2つの類型を考えることが出来る。「信仰のなかに創造された真理(神)」とのイブン・アラビーの言葉にあるように、人間に対する神性の顕現という現象に着目すると、前者は凝縮的、後者は拡散的とも呼べる。後者の包摂的理解は日本で呼ばれるところの「神」にも繋がるものがある。
以上から宗教の中には性質として包摂性と排他性があることがわかった。宗教の数的側面からの分析によって、西欧では多神教から一神教への発展過程を見るが、逆に現代の日本では再び多神教への回帰を説く意見がある。それらの分析はいずれも自分の宗教を正当化する方法でしかなく、互いの宗教の理解の間には深い断絶がある。神性の凝集性と拡散性、包摂性と排他性という人間と神との関わりという新たな分析視座により、一神教の中に多神教的面があること、多神教の中にも一神教的側面があることが見出せる。これは一神教と多神教の間の分断に橋を架ける足がかりとならないだろうか。
<コメント要旨>
異なる宗教をより客観的に比較考察するために、それぞれの宗教において非常に意味のことなる「神」自体ではなく、人間と神との関係、それぞれの宗教における信者に顕れる神性に着目する視点を導入するというのは、エリアーデのヒエロファニー概念による比較宗教学の方法への回帰とも言える。そしてその場合でもやはりそれぞれの宗教における「神性の顕れ」が果たして同一のものであるか否か、との疑問が生じ、結局異なる宗教の客観的な比較が可能か、との最初の問題に戻ってしまうのではないか。
<質疑応答>
第一にイスラームにおけるキリスト教、ユダヤ教理解にたいして、それぞれの研究者の側からの意見を見ることが出来た。
また第二にそれぞれの宗教のあり方を示す「啓典」や学問の枠組みについて、類似点と相違点を比較し、互いの宗教を理解することに繋がった。
イスラームにおける神理解で述べられた、a.立法者、b.信仰内容の提示者、c.人間に内在する神との、a・b・c型は、キリスト教の三位一体の、子なる神、父なる神、聖霊、に対応するとも考えられ、三つの宗教を比較し対話を可能にする足がかりともなりうるのではないか。
(神学研究科前期課程 山根朋子)

『2003年度 研究成果報告書』p.151-166より抜粋