21世紀COEプログラムによる活動記録

2004年度 第3回研究会

日時: 2004年10月30日
場所: 同志社大学 室町キャンパス 寒梅館
タイトル: 一神教と多神教――グローバル経済の謎
講師: 中沢新一 (中央大学総合政策学部)
タイトル: 多神教からの一神教批判に応える――文明の相互理解の指標を求めて
講師: 小原克博 (同志社大学大学院神学研究科)
要旨:
昨今、特に9.11以降、日本の論壇では一神教と多神教を巡る多くの論説が見られる。この論説には、唯一神を信仰するが故に、排他的に唯一の正義を振りかざすセム系一神教に対して、神々が平和的に共存する世界観を持つ日本的多神教は、文化的寛容という点から現代世界において優位性を有すると説くものが多い。しかし、この論の前提となる一神教対多神教という二元的構図は学的に見るならば決して事実に即したものではない。本講演ではこの構図を批判的に問い直し、今後の議論を実りあるものにする問題提起がなされた。
中沢氏によれば一神教、多神教とは近代に確立された概念であり、純粋な一神教、多神教というものは存在しない。むしろ、何れの宗教も一神教的要素と多神教的要素をその体系の内に有する。本講演で中沢氏は、このことをヒンドゥー教のシヴァ派やイスラームのタウヒードなどの事例を挙げ、宗教学的視座から詳らかにした。更に、以上の事例における一と多の総合的体系は、古くは旧石器時代に見られる宗教体系、超越的、抽象的な高神を志向する一神教的思考(洞窟での祭儀)と、女性の産出力に印象的な具象的、多様的、生命的存在を志向する多神教的思考(太陽の下での祭儀)とが相互補完的に織り成す宗教体系と構造的類縁性を有する。そこから、一神教的原理と多神教的原理は決して対立概念ではなく、我々人類の知的能力の条件を構成する二契機であることが判明する。中沢氏は続いて、キリスト教の資本主義経済の成立への寄与を指摘した。西方キリスト教会は特異な形で多神教的要素をその宗教体系に組み込むことで、今日のグローバル経済の可能性を切り開いた。例えば、絶対者と人間の媒介項を拒絶する神論に対し、イエスは神性と人性を持つ。これは抽象的価値と実在性を合わせ持つ貨幣の承認に繋がる。また、三位一体論における聖霊とその派出(フィリオクエ)はシステム概念や貨幣の価値増殖(利子)に通じている。今日、経済において宗教は表層的要素(上部構造)と見られがちだが、実は経済が宗教の一形態なのであり、グローバル経済の根底には世俗化された三位一体論、キリスト教的な多神教的契機の一神教的契機への受容形態が生き続けているのである。
小原氏は初めに、日本の論壇における一神教に対する多神教の優位性を説く発言を、様々な資料から紹介した。バブル経済の崩壊後にこれらの発言がされ始め、9.11以降激化したことを考慮すると、これらは混迷を極める現代社会に対して「わかりやすさ」を与えるメッセージだと捉えることも出来る。しかし、このような安易な二元論は事態を改善させないばかりか、誤解や偏見を助長するだろう。そこで、この二元論の解体作業がなされる。先ず、神学的、宗教学的に見れば、一神教に真に反対するのは偶像崇拝である。偶像は「出エジプト記」32章の「金の子牛」に見られるように、単に物質的なものに限らず、人間の欲求から生み出されるシステム、イメージ、自己増殖するモノをも含む。ここから、9.11のテロは経済格差や「構造的暴力」を生み出すシステム=偶像への破壊行為だとも言い得る。また、神道の大東亜共栄圏における神社参拝の強要、終戦時における海外神社の壊滅を見れば、単純に多神教が文化的に寛容だとは言い難い。小原氏は以上の点から、我々は一神教へのオクシデンタリズム、多神教へのリバース・オリエンタリズムに陥るのではなく、むしろ、穏健派と急進派、多様性の容認と一つの強固な価値観という、現在、各宗教、国家内で問題となっている思考軸に目を向けるべきだと主張する。
続く研究会では、イスラームにおける神観の確認から始まり、現代インドの宗教事情、今後の議論を実りあるものとするための方法論などがより根源的に検討された。
(CISMOR奨励研究員・神学研究科博士後期課程 上原 潔)

『2004年度 研究成果報告書』p546-567より抜粋