21世紀COEプログラムによる活動記録

2006年度 第2回研究会

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  • 060729b
日時: 2006年7月29日(土) 13:00-17:00
場所: 同志社大学 室町キャンパス 寒梅館6階大会議室
タイトル: キリスト教における世俗化・近代化に対する対応――カトリックの立場から
講師: マイケル・シーゲル( 南山大学社会倫理研究所第一種研究所員 )
タイトル: キリスト教における世俗化・近代化に対する対応――宗教社会学の立場から
講師: 三宅威仁(同志社大学大学院神学研究科助教授)
要旨:
今回の研究会は、「キリスト教における近代化・世俗化に対する対応」を主題として、マイケル・シーゲル氏がカトリックの立場から、三宅威仁氏が宗教社会学の立場からそれぞれ論じた。
シーゲル氏はカトリックにおける世俗化を論じるにあたり、まず「世俗化」という言葉が社会の様々な相における宗教の影響力の衰退を意味するとしつつも、むしろ教会が政治的権力を握ることが世俗化ではないかと問い、キリスト教における世俗化の議論とは、宗教と社会、政治、個人の関係のあるべき姿への問いであるとする。 
そもそも世俗化とは西洋では啓蒙主義の産物であるとされ、啓蒙期の思想家が理性を信頼し宗教をその批判の対象とし、人間が自身と社会を改善し現世での救済を可能にすると考えたために、救済の手段を独占していた宗教はもはや不要になると理解された。 
また氏は、英語の「secularization」とその訳語としての「世俗化」にある微妙な意味の違いをそれらの語源の違いから指摘する。「世俗化」の「俗」の対比語が「聖」であるのに対し、「secularization」の語源である「saeculum」は時間に関連する語であり、その対比語は「永遠」であるとする。氏はここにキリスト教における世俗化の特質が表れており、中世までのキリスト教は来世での救いに重点を置いてきたと述べる。つまり「secularization」とは来世から現世に注意を移すことなのであり、宗教が永遠(来世)を強調するのに対し、世俗化は現世に重きを置くことと理解されるのである。 
そして氏はこのような世俗化に対し、カトリックは近代以降必ずしも否定的であったのではなく、それを歓迎もしたと述べる。それはより現世での救いというものに教会が目を向ける契機と理解されたのである。そしてシーゲル氏は、この意味で世俗化を理解する時、キリスト教における世俗化とはこの世への教会の使命の再確認を意味するものとなると指摘した。
三宅氏は、世俗化の諸理論が1980年代以前と以降では異なるとし、まず80年代以前について述べる。そこで氏は、近代社会学はそれ自体が世俗化の産物であると言え、その始まりから社会における宗教の重要性が減少するという見通しを持っていたと述べる。宗教社会学の創始者の一人であるヴェーバーは人類史において合理化が進展していくとし、プロテスタンティズムは世俗内部を呪術から解放して合理的につくりかえたとする。また初期のデュルケムは人間の連帯が類似に基づく機械的連帯から違いに基づく有機的連帯に変わることで宗教の影響力は消失していくと考えた。 
1960年代には近代化・産業化のもとで世俗化理論は盛んに論じられたが、氏は60年代の世俗化理論は概ね、世俗化が近代化に必然的に伴うプロセスであり、一方向に不可逆的に進展すると理解し、そのような西欧の経験は普遍的なパターンであると見られていたと述べ、またこの頃の世俗化という概念には多義的な意味が込められていたと指摘する。 
しかし60年代末には、ルックマンによる宗教の私事化の指摘など、そのような理論を修正しようという試みが見られ、1970年代になるとイランのイスラーム革命をはじめ次々と政治の場における宗教の再登場が生じたことで、世俗化理論は変更を余儀なくされた。そこで80年代以降の世俗化理論は、不可避的、不可逆的な変化という理論を廃棄し、一定の条件下で社会が辿ると思われる傾向のみの指摘を行なったり(マーティン)、それまで多義的であった世俗化理論の分析レベルを明示する(ドベラーレ)などの方法がとられている。このような状況に対し、氏は、今後どのような理論が出されるにせよ、実証的研究の必要があると主張した。最後に三宅氏はウィルソンを引用しつつ、プロテスタント陣営の反応として、宗教協力、カリスマ的刷新、自発的な非構造化、合理化、折衷主義の五つの戦略がとられたと指摘し、発表を締めくくった。
(CISMORリサーチアシスタント・神学研究科博士後期課程 朝香知己)

『2006年度 研究成果報告書』p.15-52より抜粋