21世紀COEプログラムによる活動記録

2006年度 第4回研究会

  • 061216a
  • 061216b
日時: 2006年12月16日(土) 13:00-17:30
場所: 同志社大学 東京オフィス 大セミナールーム
タイトル: 古代インド・イランの宗教から見た一神教
講師: 後藤 敏文(東北大学大学院文学研究科教授)
タイトル: 宗教伝統の権威論証とインド哲学:護教論理と寛容精神
講師: 丸井 浩(東京大学大学院人文社会系研究科教授)
要旨:
『リグヴェーダ』とゾロアスター教は同時代の隣接舞台に存在しており、言語的にも共通の源から発している。後藤氏は今回の研究発表で、インド・イラン共通時代に焦点を当て、印欧語族拡大の歴史と、「一神教」を語る上で無視することのできないゾロアスター教が有する壮大な背景の一端を紹介した。氏はまず『リグヴェーダ』の「天と大地の歌」の中に多数例示されている語彙や観念の歴史的背景に着目しつつ、比較言語学の見地から印欧語の言語的、概念的な広がりを辿った。次いでインド・イラン共通時代に見られる「DevaたちとAsuraたち」という神々の二重構造に注目する。そこには従来型の神々である「Devaたち」の他に、印欧語祖語に起源を辿ることのできない「Asuraたち」という社会制度の神々を見出すことができる。その神々をめぐる神話中に見られる末子相続からは、これまで印欧語族には全くないと言われてきた母権社会がインド・イランに出現し、変革をもたらしたことが知られる。また、ギンブタスの所謂クルガン文化の拡大からは、紀元前4500年頃、それまで女性中心の平和な自然状態にあったヨーロッパに,ドナウ下流域から突如防塞都市が出現し広がってゆく過程が跡づけられる。マリア・ギンブタスによると、この防塞都市の出現は、攻撃的な印欧語族が西へ拡大したことに起因する。これらのことから、印欧語族が東西に拡大し,その過程で母権的社会と遭遇したことが推測される。東に進出したインド・イラン語派の人々の社会には,そこから逆に影響を受けた痕跡が認められる。また氏はゾロアスター教の主神「アフラマズダー」の「マズダー」を理性と解釈し、そこにゾロアスター教の特性が見られる可能性を指摘する。常に善悪を判断し、悪を排除する思考によって規定される性格である。インドの『リグヴェーダ』にも,自らの世界観の優先を謳う宣言は数多く見られる。善悪二元論、信仰告白的要素や極度の個人主義の根底には、印欧語族の攻撃的拡張主義と関係する要素があるように思われる。国教となったゾロアスター教では、部族や信条を守る武器として支配権という政治力学が重視され、次第に攻撃的性格を強めてゆくが、それは西方イランへの進出の過程で不可避であったと思われ,また,印欧語族の拡大の歴史の中で繰り返し起きたことと軌を一にしている。世界史を紐解くと、そこには一言語(語派またはその下位の部族)による支配拡大、覇権奪取が散見される。世界史は印欧語族の拡張主義によって動いてきたと言っても過言ではない。しかし,そのような拡張の歴史の中に,アリストテレスに代表されるような「普遍的理性」の拡張もあったことに思いを致す必要がある。 
  丸井氏は、一般的に神秘主義的・実践的傾向が強いと見られるインド哲学の主知主義的側面を掘り下げ、特に宗教的権威をも論理的討究の地平へと持ち込もうとした<ヴェーダ聖典の権威論証>の議論を取り上げた。具体的には、相対立する二系統の哲学伝統(ミーマーンサーとニヤーヤ)の権威論証の議論を対比させながら分析した上で、同議論は宗教的ドグマの擁護に終始する護教主義一辺倒では決してなく、むしろその脱ドグマ的論理へと押し広げようとする主知主義の営みが、他宗教の権威論証の可能性をも引き寄せる結果となり、すぐれて論争的な性格を帯びているにせよ、それなりに宗教間対話の道筋を開くインド的思惟の一事例と見なしうるのではないか、という方向性を示唆した。以上が丸井氏の発表趣旨の中核であるが、より詳しくまとめるならば、最初に西洋の哲学概念とは少なからず異なる「インド哲学」の特質を、「ダルシャナ」という概念の掘り下げを中心に説明した。ダルシャナとは特定の世界観、伝統的思想体系であり、かつ思想体系の骨子にあたる根本テキストに適宜、後代の解釈が付加されてゆく学知の伝統の総体を意味する。そうした伝統知は師から弟子へと伝授すべきものと理解され、その意味で党派的性格を有していたが、同時にそこでは他の党派に伝達、納得させるための超党派的な反省知・論理的思考も重視された。とりわけそれは、仏教論理学者によってバラモン批判が展開されて以降(6‐7世紀頃)、知識の源泉、判断根拠、正しい認識とその獲得手段を意味する「プラマーナ」を巡って哲学的議論がダルシャナ間、異宗教間に活発になされたところに見られる。各ダルシャナ間の相違はあるものの、重要なプラマーナとして「知覚」(認識論)、「推理」(論理学)、信頼すべき言葉、教示を意味する「シャブダ」の三つが挙げられる。しかしとりわけ、シャブダを独立したプラマーナとして認めうるのかという議論は、哲学(論理)と宗教がせめぎ合う議論としてプラマーナ論においても特異な位置を占めていた。シャブダにはヴェーダを始めとする聖典が含まれるからである。それ故に、シャブダに関するプラマーナ論は、バラモン系正統派においてはヴェーダ聖典の権威論証の問題と関係して議論された。氏は、ニヤーヤとミーマーンサーの両ダルシャナの論争を取り上げた。両ダルシャナともヴェーダ聖典の権威、プラマーナとしての妥当性を認めたが、ニヤーヤはそれを「他律的」な権威だと考える。つまり、ヴェーダ聖典の権威は決して自明ではなく、それを語る者の資質によって成り立つのであり、とりわけ話者の知覚(覚知、神秘的直感も含みうる)に依存するものである、とする。一方で、ミーマーンサーにおいてはヴェーダ聖典の権威はそれ自体で保証される。ヴェーダ聖典もシャブダである限り、その妥当性は話者の資質に掛かっているとするニヤーヤに対し、それでは知覚などのプラマーナは最終的に何によって基礎付けられているのかという反論をミーマーンサーは展開した。このようなミーマーンサーの理論は、仏典とヴェーダの権威を巡る宗教間対立を孕んだ仏教との論争に刺激を受けて発達した面が大きいと思われる。そこでは両者ともお互いの聖典の権威を否定しあったために深刻な対立を生んだのだが、そのことでこの議論はバラモンの思想内部の護教論的議論に留まることなく、他宗教との間の哲学的論争の性格を持つに至る。また、この論争は宗教的立場を異にする宗教的対立を越え、宗教(聖典)一般の権威問題にまで射程を広げている。つまり、全ての宗教(聖典)に権威を認めるのかどうかという問題が視野に入ってくるのである。この点に関しては、9世紀に活躍したニヤーヤ学者ジャヤンタ・バッタの論が興味深い。彼は『ニヤーヤ・マンジャリー』の中で、一定の制限を設けながらも他宗教の正当性を認める寛容主義的主張を展開しているのである。氏は、ヴェーダ聖典の権威論証を巡る護教論理と寛容精神の相克を今日の宗教観対話に接続し、考察上の示唆とすることはできないものかと模索している。
(CISMORリサーチアシスタント・同志社大学神学研究科博士後期課程 上原 潔)

『2006年度 研究成果報告書』p.84-142より抜粋