21世紀COEプログラムによる活動記録

2007年度 第3回研究会

  • 071006a
  • 071006b
日時: 2007年10月6日(土) 13:00-18:00 (部門2と合同)
場所: 同志社大学 東京オフィス 大セミナールーム
研究テーマ: 共存を妨げるもの ―イスラームの場合―
タイトル: 西欧社会は、なぜ自ら共生の道を閉ざすのか ―9.11以前と以後―
講師: 内藤正典(一橋大学大学院社会研究科教授)
タイトル: イスラームにおける共存を妨げるもの
講師: 中田 考(同志社大学大学院神学研究科教授)
要旨:
はじめに内藤氏は、西欧における国家構成員と「異質な存在」の関係についての、次の三つの類型を提示した。(A)多文化主義型。複数の宗教・民族集団の並存を前提に、それらの棲み分けを行う。世俗主義を原則としない。UK、オランダがこの型。(B)国家原則・理念との契約型。契約によって宗教的・民族的な異質性が解消したとみなし、世俗主義を掲げる。フランスが該当。(C)異質な存在を想定しない型。ラント単位でのキリスト教会とのコンコルダートを容認し、キリスト教に特別な地位を与えている。ドイツが該当。 次に内藤氏は、三つのシステムに内在する排除の論理を指摘した。A型は、実際には「我々」と「彼ら」の境界の存在を前提とする。この境界が硬直化するとアパルトヘイトに酷似した事態が生じうる。B型は、契約に違反するものは排除する。この排除は正当化され、排外主義とは認識されない。C型は、異質な存在に対するための原則がないため、その存在を後追い的に認知することになる。結果、排除の論理は多様な形で現れる。 
そして内藤氏は、9.11以前と以降の変化を、類型ごとに指摘した。A型のオランダでは、9.11後イスラモフォビアが噴出した。イスラームへの攻撃を主導したのはリベラル派(実質はリバタリアン)である。リベラル派は「我々」と「彼ら」の境界をイスラームが破壊したと認識し、「我々」の安寧を脅かすムスリムの排除を求める。多文化主義のジレンマと認識されてはいるが、大きな混乱が生じた。B型のフランスは、理論面では9.11の影響はない。だが異質な存在と国家原則・理念の間の齟齬に強く反応するようになった。宗教シンボル禁止法はその現れである。また異質な存在への規制強化が「テロとの戦い」の名目で行われている。さらにイスラームへの反撥がトルコのEU加盟反対という歪んだ形で現れた。C型のドイツも、理論面では9.11の影響はない。だが既存の排外主義が、宗教や価値・規範の相違に照準をあわせるようになった。排外主義は「我々」の民主的価値・規範に衝突するものとしてイスラーム・ムスリムを認識、差別を正当化した。また「民主的立法者」としてのラントが、スカーフ規制を法制化した。排外主義に抵抗してきた左派もこうした動きに同調、リベラルなベルリンなどの都市でも規制が強化された。さらにドイツ南部では、「我々」の象徴としてのキリスト教を前に出し、イスラームに敵対する動きがある。 
最後に内藤氏は、EUがこの問題を解決するのは難しいと述べた。EUには加盟国内部の問題を軽減する論理、機能がない。「反・排外主義」や「寛容」を説いても、各システムで何を「寛容」とするかが異なり、EUはこの相違を調整できない。ゆえにEUが容認する「文化の多様性」はイスラームには機能しにくい。また、これらの問題が重層的に2001年以降に現れたことが、トルコのEU加盟交渉の大きな障害となった。
(CISMORリサーチアシスタント・神学研究科博士後期課程 杉田俊介)
本研究会のテーマに即した議論を有効に進めるためには、まず「共存」という概念が成立する条件を明らかにしなければならない。というのも「共存」の意味するものがそもそも曖昧であり、古典イスラーム学においても「共存」をテーマにした研究は存在しないからである。ではどういった場合に「共存」を語ることができるのか?空間に関しては、二つ以上の「物(神学の伝統では空間を占めるもの)」が相互作用の可能な範囲内に存在していることが求められる。時間の共有は、「共存」の必要条件であるが、相互作用を可能にする一定の時間幅を同時に考慮しなければならない。「物」にやどる宗教・思想・文化といった「偶有」に関しては、同一の「物」に複数「共存」することができる。世界の存在者はすべて合成物なので、どの個体をとってもそれは複数の部分が共存した合成物であり、またどの個体も上位レベルの存在者の構成要素として他の個体と共存関係を結んでいる。 
「イスラームにおける共存を妨げるもの」を問うには、次のような設定が想定される。時間的にはムハンマドによるイスラーム開教から現在まで、空間的にはほぼ地表のすべてが対象となる。宗教は信徒などの「物」に宿り存在すると考えれば、歴史上イスラームは諸宗教の信奉者やその象徴と共存してきた。だが事実として「共存」が見られたとしても、それが本当に「イスラーム」であったのかは慎重に検討しなければならない。ただしイスラームは、一定の限度を超えない逸脱に関しては、その存在を許容する。 
イスラーム法学では、地表を「イスラームの家」と「戦争の家」に大別する。前者は、ムスリム共同体全体の長カリフがイスラーム法にのっとり、外敵の侵略から領土を防衛し、住民の生命・財産・名誉を守り、宗教共同体ごとの自治を保障する空間であり、後者はそれ以外の無法地帯である。そして「イスラームの家」をジハードによって広げることが、カリフ制の理念でありイスラームの考え方である。ジハードの対象となった住民は、改宗してムスリムになるか、税を貢納し庇護民となるか、戦争をするかの選択を与えられる。ただしここでの戦争は法的な状態であり、必ずしも実際の戦争を意味するわけではない。 
「イスラームにおける共存を妨げるもの」とは、カリフ制の不在により安定したイスラーム統治が妨げられている現状である。カリフ制が実現すれば現在テロと呼ばれる行為の予防も期待できる。イスラーム統治を拒む者は、自由や人権を謳う国々が無条件に受け入れるべきである。イスラームと共存するために非イスラーム世界に求められるのは、カリフ制の実現を妨害せず、人々の自由な移動を保障することである。
(CISMORリサーチアシスタント・神学研究科博士後期課程 原田恭介)

当日配布のレジュメ

『2007年度 研究成果報告書』p.98-132より抜粋