21世紀COEプログラムによる活動記録

2005年度 第2回研究会

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  • 050723b
日時: 2005年7月23日(土)
場所: 同志社大学 東京オフィス
タイトル: 比較文明論の観点からみたキリスト教世界の類型化の試み
講師: 加藤 隆 (千葉大学文学部教授)
タイトル: キリスト教における正典的解釈の可能性――土の器としての正典――
講師: 石川 立 (同志社大学大学院神学研究科教授)
要旨:
  本研究会では、加藤氏は類型論的観点からキリスト教世界の構造を分析し、石川氏は聖書の正典論について論じた。
  加藤氏は西洋キリスト教世界の多層構造に注目する。はじめ西洋世界は自由人と奴隷の二層構造であったが、アレキサンダー大王の時代、増大する下層の民の管理の労が上層に強いられることで、社会は不安定になった。これに安定をもたらしたのがキリスト教の国教化である。キリスト教には聖職者と信徒の二層構造が存在している。これは既に福音書記者ルカの問題でもあった。よきサマリヤ人のたとえや、マリヤとマルタの物語にこれが表れていると加藤氏は分析する。国教化に伴い社会は聖職者、貴族、民衆の三層構造に変化する。この構造は中世の安定をもたらし、科学の発展を準備した。これが変化するのは啓蒙とフランス革命の時代である。聖職者から権威が剥奪されることで再び二層構造へと移行したのである。聖職者が有していた神との結びつきは神の摂理を認識する自然理性に取って代わられ、二層構造は西洋世界(啓蒙)と野蛮世界(未開)の対比構造となる。科学の発展により増大し続ける富は社会に安定をもたらし、また、その富は下層領域にまで行き渡り当該領域を縮小、同時に大規模な世俗化を促す。これが現在の状況だと加藤氏は述べた。ここで宗教的価値は失われたかに見えるがそうではないとして、加藤氏はフランス革命時代の「最高存在」信仰について論じた。「最高存在」は目のシンボルで表現され、ナポレオンのコンコルダ公布を描いた絵画では、この目に諸宗教が従属させられている。またこの目は一ドル紙幣の裏面にも描かれている。啓蒙主義的宗教ともいえるこの最高存在信仰は、一神教的構造を持っておりこれを研究する必要性を述べ加藤氏は発表を終えた。
  石川氏は、はじめに一キリスト者としての立場から発表を行う旨を述べた。日本基督教団の信仰告白には、聖書が信仰と生活との誤りなき規範であると書かれている。しかし、教会の現状を鑑みるにそのようには捉えられてはいない。この正典の権威失墜の理由として、石川氏は啓蒙主義に基づく歴史-批判的聖書学の発展を指摘する。とりわけ新約聖書学における様式史、伝承史的方法は、研究から信仰や神学を排し、聖書を合理化、歴史化して理解しようとする。これによって正典としての聖書(とりわけ新約)に厳しい批判が突きつけられることになる。歴史-批判的研究の立場からすれば聖書は正典とは呼べず、それどころか、その立場にとってはそもそも正典という概念が意味をなさないのである。しかし聖書は研究者だけのものではない。聖書のそもそもの現場は、救済を求め素朴に聖書を読む者の集まりとしての教会であり、この教会には正典が必要なのだと石川氏は述べる。信仰の継承のために、それを唱え黙想するために、議論の土俵として正典が必要である。むしろ、一つのまとまりとして聖書が提供されることで、そこには歴史-批判的研究が捉え得ないような独特の意味空間が現出する。これはフュークリスターに始まる詩編研究において見いだされた事柄でもある。しかし、これは詩編に限られるのではない。ツェンガーが指摘するように、聖書全体の中にシンフォニーの響きを聞き取ることが重要である。正典は人の作り出した脆い土の器になぞらえられる。これを砕けばそこに収められた証言と真理も共に失われる。バルトは教会教義学を記したが、現在の教会に必要なのは啓蒙主義に基づく聖書学ではなく、教会聖書神学とでも言うべきものだとして石川氏は発表を締めくくった。
  その後中村氏は、両発表に通じる要点として二層構造が指摘できるとコメントした。加藤氏の指摘する近代社会の二層構造と、石川氏の指摘する啓蒙主義と教会の二層構造はぴたりと一致している。続けて、越後屋氏はコメントの中で石川氏の正典的解釈を最終編集重視の立場と捉え、それに対しバーなどの見解を挙げて疑義を投げかけた。以上のコメントの後も、正典の解釈権と二層構造の問題、聖書解釈の問題などを巡って様々に議論が繰り広げられた。
(CISMOR奨励研究員・神学研究科博士後期課程 高田 太)

当日配布のレジュメ

『2005年度 研究成果報告書』p.207-241より抜粋