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イスラームの宗教性―日本人の宗教観と比較して―

公開講演会

イスラームの宗教性―日本人の宗教観と比較して―

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日時: 2005年06月18日(土)午後2時~4時
場所: 同志社大学 今出川キャンパス 神学館 礼拝堂
講師: 小田 淑子 (関西大学文学部教授)

要旨:
【講演の趣旨】
日本人は死者儀礼や祭りに参加するが、無宗教だと公言する。これは宗教を高尚な精神世界か、怪しげな教団かの両極端、つまり健全な日常生活の外にあると考えるからだろう。イスラームは戒律の厳しい一神教、全員在家の宗教で、健全な社会生活を重視する。一神教と戒律を嫌う日本人には分かりにくい宗教である。
イスラームも来世志向だが、現世での社会生活を重視する。人間は個人、精神であると同時に社会的、身体的存在だとみなすイスラームの人間観が、社会や政治に関与する宗教性の根底にある。戒律の厳しさは身体的訓練を通して信仰心を養う方法である。原罪観念のないイスラームの罪悪観を考察し、現代におけるイスラーム社会が抱える問題にも言及する。

【趣旨】
小田氏は宗教学を専門とする立場からイスラームについて、そしてイスラーム理解から見た日本における宗教について論じた。同氏は講演に先立ち、宗教とは何らかの儀礼を持ち、それが世代を超えて伝承されているものと定義した。
小田氏によれば、イスラームは一般に日本人には理解困難な宗教であると言われるが、これには宗教観の相違に起因する2点の理由があるという。第1に、日本人が宗教とは苦境においての救いや希望を与えてくれるものという理解に立っていることにある。イスラームは基本的に「健全な社会人の宗教」であり、救いや癒しを主たる目的としない。第2には、上座部仏教になじみの深い日本人には、宗教的戒律自体に嫌悪感があることである。イスラームには全信徒が従うべき規律が存在し、またそれの規律が極端な禁欲をといたものでもなく、余計に理解を困難にさせている。
次に小田氏は、イスラームに特徴的な以下の4点などを紹介しながら、さらに日本の宗教やキリスト教についても言及した。
1)クルアーン
イスラームの聖典クルアーンは、預言者を通じて示された神の言葉そのものである。クルアーンでは、まずなぜイスラームを信じなければならないかという根拠が示される。具体的にはイスラームにおける世界観、神による創造、ユダヤ教、キリスト教の諸預言者について述べられる。そして、さらに信徒の規範も列挙される。キリスト教以外の啓示宗教については、ほとんど新興宗教しか見ていない日本人には、啓示も預言も分かり難く奇異なものに解釈される傾向がある。
2)原罪
イスラームでは原罪を認めていない。他の宗教から見ると楽観的にとらえられがちであるが、イスラームは厳格な終末論を展開する。このことは逆に現世の罪を楽観視していないからであると言うことも可能である。
3)ウンマ
イスラーム信徒の共同体「ウンマ」とは、宗教的共同体であると同時に生活共同体でもある。日常生活にも関与することから、宗教的共同体に政治的な意味が付される。宗教的共同体のリーダー(カリフ)が現世的な事柄も運営を委任されたのはこのためである。しかしウンマはキリスト教の教会のような整備された組織ではなく、具体的な制度も持たないために把握が困難なこともある。
4)シャリーア
シャリーアはイスラームにおける法的規範一般であるが、個々の信徒をイスラームに沿った生き方へと導く「道」のようなものという解釈の方が事実に即している。イスラームに従って生きるとはどのようなことかを、具体的に示しているのがシャリーアである。また、シャリーアが活きていることがイスラーム世界を成立させてきたとも言え、イスラーム世界はその意味では法治世界である。
5)適応性
一方で、イスラームは現実主義に適応する側面も持っている。イスラームが拡大・浸透していった地域においては、現地の事情や歴史的変化に柔軟に対応してきた足跡が見られる。
コメンテーターの三宅氏からは、比較宗教の枠組みとしてのイスラームと日本における「宗教」の対比に疑問が提起された。また、ムスリムの心情における理念と行動の一致や、イスラーム世界における呪術的要素の有無に関しても質問がされた。
この日の来場者は、約150人であった。

(COE研究指導員 中村明日香)
一神教学際研究センター・日本オリエント学会共催
当日配布のプログラム