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ペンテコステの典礼におけるユダヤ教とキリスト教の対話 

公開講演会

ペンテコステの典礼におけるユダヤ教とキリスト教の対話 
A Jewish Christian Debate in the Liturgy for Pentecost

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日時: 2015年09月03日(木)13:00-14:30
場所: 同志社大学今出川キャンパス同志社礼拝堂
(京都市営地下鉄烏丸線「今出川駅」下車3番出口徒歩3分)
講師: ヨセフ・ヤハロム(エルサレム・ヘブライ大学名誉教授)
要旨:
 キリスト教において禁欲主義は偉大な徳と見做され、パウロの教えを知ったテクラが婚約を破棄し、新しい女性のイメージ像を作り上げるのに役立った。このようなキリスト教の禁欲主義の理想は、ユダヤ教に価値として共有されなかった。ユダヤ教では、異なった女性のイメージ像がトーラー理解で展開した。トーラーや律法は神の娘として表象され、彼女(トーラー)は結婚させようとする神の懇願をはねつけるのである。Yahalom氏は、中世のユダヤ教とキリスト教が緊張関係にある中で、どのようにユダヤ教の祈りや女性のイメージ像が展開したかを、トーラー授与を祝うシャブオート(七週の祭り)と聖霊降臨を祝うペンテコステ(ギリシア語で50日を意味)の典礼を中心に説明した。
 殉教者ユスティヌスはパウロに倣って、創世記15章6節の「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」の解釈を採用した。それによると、割礼以前にアブラハムは信仰により義人であり、のちにアブラハムが実行した割礼の命令は、殊更に特別ではないのである。パウロが割礼について肯定的にも語ったのとは異なり、ユスティヌスはアブラハムの解釈に満足せず、アダム、エノク、ノアなどのアブラハム以前の人物たちを理解する際に、割礼のような儀礼が不要であると見做した。そしてモーセ以前の時代において義を判断するためトーラーが基準となっていなかったのであれば、イエスの到来以降もトーラーは不必要であると主張した。ユスティヌスの理解によると、金の子牛を作った罰として、神は多くの命令と共にユダヤ人にトーラーを与えたのである。パウロがユダヤ人を聴衆としたのに対し、ユスティヌスは異教徒に語ったため、二人の解釈には違いが生じたと考えられる。他方、ユスティヌスと同時代に生きたラビの教師たち(タナイーム、単数はタンナ)のノアに対する評価は分かれている。あるタンナの見解では、ノアは彼の世代との比較においてのみ義人だった。タナイームたちがノアのイメージを下げようとするのは、キリスト教との論争が理由であった可能性を否定することはできない。
 キリスト教教父は、精神的なつながりを強調し、ユダヤ人がアブラハムの肉的な子孫であるのに対し、イエスの信者たちがアブラハム以前のノアのような人類最初期の人物たちの子孫であることを主張した。ユダヤ教の初期のミドラシュは、ユダヤ教の選びが他の宗教に移ったという主張に応答しており、申命記32章の「主に割り当てられたのはその民、ヤコブが主に定められた嗣業」が代表的解釈の一つである。それによると、アブラハムがイサクに相続権を渡せなかったのは、兄であるイシュマエルがいたためであった。またエサウがいたために兄弟であるヤコブへの相続権の移行も困難であったが、のちにイスラエルとなるヤコブに選びの焦点が移り、相続権はイスラエルの系図に途絶えることのない鎖として伝わっていくのである。この解釈は、畑の所有者である王が、畑を台無しにする小作人から領地を取り上げ、王の息子に与えるという枠組みで展開し、新約聖書のぶどう畑と農夫のたとえ話を思い起こさせる。
 ユダヤ教のシャブオートに関しては、このような罪ゆえの拒絶という主題がシナゴーグの祈り世界で展開する。アダムは、殺人を犯した息子カインゆえに、トーラーを与えられなかった。ノアは彼の世代に人々が救済されるよう祈るべきだったにも関わらず、自身の家族のために箱舟を作った。アブラハムも同様に息子を屠るように命令があった際に、祈ることをしないという罪を犯した。こういった父祖の敬虔に対する反論は、神の娘として人格化されたトーラーの口を通して、語られた。このような神とその娘であるトーラーとの対話は、セデル・アドナイ・カナイという典礼詩にまとめられ、そこで神はトーラーの態度を和らげようと試みる。この詩文の最初期のものは5世紀頃のものであり、それらの詩文では、モーセが天に上り、トーラーを受け取るときの対話により締めくくられる。そして対話のあとに、神の賞賛とシルク(上昇)が続き、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」というケドシャの詠唱によって、礼拝者は超越的な神秘体験をしていたと考えられる。重要なのは、このような典礼的な内容がシウル・コマのような神秘主義文学の中に見出されることであり、典礼詩と神秘主義が深い関係にあったことである。
(CISMOR特別研究員 平岡光太郎)
※英語講演・逐次通訳あり
※入場無料・事前申込不要

【主催】同志社大学一神教学際研究センター
【共催】同志社大学神学部・神学研究科
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20150903ポスター