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南レヴァント地域出土の考古資料から見るヤハウェ一神教の成立

公開講演会

南レヴァント地域出土の考古資料から見るヤハウェ一神教の成立
The Formation of Yahwistic Monotheism: an Archaeological Approach

日時: 2016年02月13日(土)13:00-15:00
場所: 同志社大学今出川キャンパス クラーク記念館チャペル
(京都市営地下鉄烏丸線「今出川駅」下車3番出口徒歩3分)
講師: 杉本 智俊(慶應義塾大学文学部民族学考古学専攻 教授)
要旨:
杉本氏は、古代の一神教の成立の在り様を考古学資料の観点から説明した。
まず考古学資料と聖書資料の性格の違いについて指摘があった。それによると、文書として残された聖書資料は、宗教的リーダーや王など、社会の指導的立場の人々によって作成されたため、彼らの先入見が入り込みやすい。これに対し、考古学資料は、その作成者や詳細が不明な場合が多々あるものの、特定の人間により意図的に残されたものでないため、文書で伝わってきたことと少しずれた先入見抜きの当時の様子を伝えてくれる。性質の異なる、考古資料と聖書資料があることは、より客観的なものの見方を可能にする。
聖書において、アブラハムから一神教は始まっている。そしてその神がヤハウェと認識されるのはモーセからである。出エジプトをしたイスラエルの人々がカナンに入っていこうとするとき、そこに住んでいた人々の影響を受け偶像崇拝を行う。
近年、研究者に広く受け入れられている理解によると、一神教が明確に受け止められるようになったのは、バビロニア捕囚の前後で、それの以前のイスラエル人はカナン人と同じような多神教的な考えをもっていた。初期聖書批評学の立場を代表するヴェルハウゼンなどは、族長時代にアニミズムや多神教、預言者の時代に倫理的一神教、捕囚期により純粋な一神教になったと理解する。このような理解の背景には、ヨーロッパ社会における進化論の考えがある。これに対し、原始一神教論というものがあり、これによると、元々は特定の都市の神は、領域国家が広まることにより、神々のヒエラルキーの頂点に到達するという理解である。アブラハムのような天才が啓示を受けて成立したと主張する創唱宗教の立場もあるが、これを支持する研究者は少数である。捕囚以前の時代は多神教だったとする根拠として、シリア北部において発見された、古代カナン宗教の内容を伝えるウガリット文書が存在する。この文書では、エル、アシェラなどの神々が登場し、エルは女神と夫婦関係にある。このことから、同様にエルと呼ばれる聖書の神も夫婦関係にあったという、カナン宗教とイスラエル宗教を一続きと見做す考えが出てきた。
シナイ半島に位置するクンティレット・アジュルドで発見された図像には、動物のような頭を持つ二人が立ち、その図像に重なるように「サマリアのヤハウェとアシェラによって私はあなたがたを祝福する」と銘文が書かれている。これを発見した人々は、二人の図像を牛の姿のヤハウェとアシェラと理解した。これに対し、杉本氏は、この牛が角をもっていないこと、ペアであることが重要なはずであるのに3人目の竪琴を弾く人物が傍にいることから、それらをヤハウェとアシェラと見做すことは難しいと考える。現代では、そもそも碑文自体を「ヤハウェとその配偶者アシェラ」と読む必要があるかという問いも提起され、聖書ヘブライ語文法において神に代名詞を使用できないことを鑑み、「そのアシェラ」という表現を、女神ではなく、生命の木として理解する立場もある。
 杉本氏が考古資料から理解するところによれば、前1200年頃にイスラエルの人々が歴史の舞台に登場する頃の女神アシェラのイメージは、次の200年間ほどの時代にあいまいとなる。カナン時代のイメージである生命の木というシンボルを使用しつつも、そこには女神という要素がなくなり、アシェラの有した豊穣の要素はヤハウェに取り込まれる。最終的に紀元前9世紀ぐらいには、生命の木というシンボル自体も偶像崇拝と見做され、排除された。つまり、取り込みという現象は他の神々より属性を奪う行為であるため、包括的な一神教的概念が展開し、その後、排他的一神教へと至るのである。
(CISMOR特別研究員 平岡光太郎)
※入場無料・事前申込不要

【主催】日本オリエント学会、同志社大学一神教学際研究センター
【共催】同志社大学神学部・神学研究科
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