公開講演会

神を観ることについて
On Seeing God

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日時: 2016年05月12日(木)16:40-18:15
場所: 同志社大学今出川キャンパス 神学館チャペル
(京都市営地下鉄烏丸線「今出川駅」下車3番出口徒歩3分)
講師: スレイマン・ビン・アリー・ビン・アミール・アルジュエリーー博士
(オマーン・スルターン国 国立スルターン・カーブース王立大学 教育学部イスラーム法学学科長・准教授)
要旨:
 ALShueili氏は、神を見ることの可能性をめぐるイスラームにおける議論をクルアーンやハディースを参照しつつ論じた。
 「見る」ということの定義には、目(視覚器官)で見ることと、心で見る(理解する)ことの二つがあり、イスラーム教徒はこれらの意味で神を見ることを検討している。目で見ることに関しては、神を見る可能性とそれが誰に起こるかが問題となるが、まず神を見ることが現世と来世で可能であるとし、それが信仰者一般に可能とする説と、現世では預言者の様な人々だけ可能とする説がある。次に、来世だけで見るとし、神を見ることが来世での最大の恩恵であるゆえに信仰者だけが見る、信仰篤い人も不信仰者も共に見る、信者と偽信者と不信仰者の三者が見るとの説、そして来世も現世も神を見ることはないとの説がある。
 現世で神を見る可能性の根拠として、被造物が存在し互いを見ることが可能ならば、類推により被造物の存在から創造者が存在するゆえに創造者を見ることの可能性が指摘される。しかし被造物同士でも見えないものが多々あり、さらに創造者と被造物の属性の違いを考えればそういった類推の適用は出来ない。クルアーンには現世で神を見るとのモーセの言葉があるが、これは彼の無知からではなく、神を見たいとの民の要求が不可能であるのを明示するためと考えられる。またハディースの「夜の旅」の記事から可能とする説があるが、預言者の妻アーイシャの言葉「ムハンマドが彼の主を見たと主張する人は、アッラーに対して最も悪い嘘を言っている」や、その不可能さを意味する預言者の言葉も別のハディースにあり、クルアーンとハディースから現世で神を見ることは不可能と考えられる。
 来世で見ることに関して、最後の日に見ることに関する文言は、一般的な見るという意味でも実際にはそのものを見ていない場合や、待ち望むという意味の箇所もあり、クルアーンでもハディースでも明確に神を見る証拠となっておらず、天国に入るという意味だと考えられる。天国に入ることは信仰者の最大の恩恵であるゆえに、裁きの日に全ての人が裁かれることから人間全てがそこで神を見る可能性があるとする指摘には問題がある。また預言者の言葉でも伝承経路の信用度が低いものは、我々の信仰問題の論拠となり得ないため、様々なハディースを検討し、ある学派は神を見ることが現世でも来世でも不可能と結論する。
 神を見ることの否定については、見ることの知性的根拠として、見る対象物の存在、大きさ、距離、光の必要などの条件があるが、このような属性を神が持つとは思われないため、創造者たる神は被造物の見ることの対象物ではないと思われる。クルアーンには「あなたたちは私を見ないだろう」との神の言葉があり、この言葉には時間と空間の制約が無く、決して違えられることはない。現世や来世で神を見るならば、この最も信に値する文言と矛盾するため、クルアーンでは神を見る可能性は否定されていると言える。またハディースにも神を見ることが不可能であることが示されている箇所がある。
 我々はこのように様々な論議をするが、我々イバード派は現世でも来世でも神を見ることは不可能との立場をとる。神を見ることに比喩的表現が使われることがあるが、神は属性をもって変わることがなく、どんな被造物とも比較出来ない。比喩を用いるハディースは、様々な機会や場所で神について語られた時に、そこで聞く人に理解させるために最も相応しい表現を使ったに過ぎないと述べ、講演を締めくくった。講演後、会場との質疑応答が行われた。
(CISMOR特別研究員 朝香知己)
※英語・アラビア語講演、通訳あり
※入場無料・事前申込不要

【主催】同志社大学一神教学際研究センター
【共催】同志社大学神学部・神学研究科
20160512ポスター