同志社大学 一神教学際研究センター CISMOR

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「アマルナ」前夜のエジプト―アメンヘテプ3世治世末期のテーベ

公開講演会

日本オリエント学会共催 公開講演会

「アマルナ」前夜のエジプト―アメンヘテプ3世治世末期のテーベ

日時: 2013年02月09日(土)13:00-15:00
場所: 同志社大学今出川キャンパス 神学館3階礼拝堂
講師: 近藤二郎
 早稲田大学文学学術院 教授
 早稲田大学エジプト学研究所所長
要旨:
 ⼀神教は、⼀般的に唯⼀の神への信仰として定義され、古代イスラエルの宗教の特徴であると認識されてきた。聖書的伝統の⼀神教はモーセの⼗戒にまで遡る。そこには、「あなたは、わたしをおいてほかに神があってはならない」(出エジプト記20:3、申命記5:7)と記されている。しかしスミス⽒は、多くの学者は、聖書における初期の⼀神教が、ヤハウェに優先する他の神々を認めないことを
強調し過ぎてきたのだと⾔う。
 「⼀神教」という⽤語は、ヘンリー・モア(Henry More)の1660年の著書における造語であると考えられている。「多神教」という⽤語はより古く、アレクサンドリアのフィロン(Philon Alexandrinus)によって造り出され、1580年にフランスで無神論との関連で、ジャン・ボーダン(Jean Bodein)がはじめて近代的語彙に取り⼊れたと考えられる。⼀神教は、宗教を分類する学術的努⼒を⽀えてきた。諸宗教は、神の形態によって諸形式に分類され、これらの形式は相対的な価値や重要性を割り当てられたのであり、⼀神教は宗教の最⾼の形態とされた。このアプローチはしかし、近年、疑問視されるようになった。スミス⽒は、その理由として次の七点を挙げて論じられた。
 第⼀に、「⼀神教」という⽤語は、聖書の、あるいは古代近東の⽤語ではなく、近代におけるアナクロニズムである。聖書の分野では、古代⽂明への⼊⼝として役⽴て、近代と古代の⽂脈との間の隔たりと相違の批判的感覚を獲得するために、アナクロニズム的ないくつかの⽤語を⽤いる。それは、古代の⽂明本来の理解(⼈類学者がemicと呼んだもの)と、その本来の理解の近代的解釈(etic)との違いを明らかにするのに役⽴つ。第⼆に、⼀神教という⽤語は、⻄欧的宗教とくにキリスト教の優越性を擁護するために⽤いられた。⼀神教という⾔説は、古代イスラエル社会と他の社会の中の多神教を攻撃することを⽬的とした論争的修辞として現われたのである。第三に、⼀神教と多神教という⽤語は、古代のデータにおいてあまりにも鋭い対照として描かれている。古代の多神教の中に何らかの「mono(⼀)」が存在し、⼀神教の中にも何らかの「poly(多)」が存在している。第四に、それは、神の現実やそれに結びついた実践をもたらす社会的政治的⽂脈についての⼗分な配慮がなされていない。⼀神教は、卓越した考えとして表現されたり讃美されたりするべきではなく、現実のより複雑な理解と社会的宗教的実践に対応する、より広い宗教的⽂化的⽂脈において理解されるべきである。
 第五に、⼀神教は定義するのが難しい。それは宗教的信念として、また「崇⾼な考え」として捉えられ、⼀神教的な伝統として特徴づけられてきたのである。第六に、古代イスラエルの宗教のうちに他の神々が存在するので、古代イスラエルが真に⼀神教であるという主張は不適切である。この異議は、最近の議論において影響⼒を増してきている。第七に、⼀神教的であると主張された聖書の⽂書は真に⼀神教的なのか?この⽤語に対しては真剣な異議があり、限界がある。聖書的⼀神教は、「⼀⼈の神」説の新アッシリアおよび新バビロニアの帝国主義的⼀神教の主張に対応する形で出てきたのではないかと考えられる。上記のことから、次のように結論付けることができるであろう。イスラエルの⼀神教は、単により旧い伝統的なヤハウェ-エルのプロフィールを再定義するのみならず、神そのものをも再定義する。古代イスラエルにおける神について⾔われることは、イスラエルの唯⼀神のみである。他の神々は省かれてしまった。太陽、⽉、星たち、御使いたちも、もはや低レベルの神々ではなく、宇宙的⽔(cosmic waters)も神聖なものではなく、創造されたものであり、ヤハウェとはまったく別のもの、神的ではないもの、幻想以外の何ものでもないものと考えられるようになった。
 聖書の中に表現されているものは、唯⼀の神の現実を構成している。それは、神の名称や権限を唯⼀の神に集中させるというような単純なものではない。神は、さまざまな特徴をもつがゆえに、優れた神であるということではない。この神は、初期の解釈に⽐べて、より優れた神であり、より⼈間性を増してきているということが、他の神々との⽐較において⾔える。古代イスラエルの神に関して⼤変⾰があったとするなら、それは、単純に神の役割や機能を⼀つにまとめてしまったということではなく、個性の部分や⼈間的な役割の部分において拡⼤されている点にあるということが⾔えよう。  (CISMORリサーチアシスタント 佐藤泰彦)
※入場無料・事前申込不要
【主催】日本オリエント学会
同志社大学 一神教学際研究センター (CISMOR)
【共催】同志社大学神学部・神学研究科
講演会プログラム