同志社大学 一神教学際研究センター CISMOR

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「宗教の出会いがもたらす争いと豊かさ ― ユダヤ教・キリスト教・イスラームの記憶から未来へ」

公開講演会

国際シンポジウム

「宗教の出会いがもたらす争いと豊かさ ― ユダヤ教・キリスト教・イスラームの記憶から未来へ」

日時: 2012年02月18日(土)13:00-15:30
場所: 国立京都国際会館  京都市営地下鉄 烏丸線「国際会館駅」から徒歩5分
講師: ヤフヤー・M・ミショット (ハートフォード・セミナリー 教授)
ジョナサン・マゴネット (レオ・べック・カレッジ 名誉教授)
ポール・R・メンデス=フロール (エルサレム・ヘブライ大学 名誉教授)
イブラーヒーム・ザイン (マレーシア国際イスラーム大学 教授)
要旨:
このシンポジウムは、CISMORの研究プロジェクト「多文化共生時代における⼀神教コミュニティ間の相互作用と対話」が、日本学術振興会による「頭脳循環を加速する若手研究者戦略的海外派遣プログラム」に採択されたことを受けて実施された。採択されたプログラムは、若手研究者を海外研究機関に派遣して、国際共同研究を推進することを目指している。今回の講師たちは、CISMORが共同研究を進めていく海外研究機関から招聘した。
シンポジウムにおいては、まずジョナサン・マゴネット氏(レオ・ベック・カレッジ名誉教授)、ポール・R・メンデス=フロール氏(エルサレム・ヘブライ⼤学名誉教授)、イブラーヒーム・ザイン氏(マレーシア国際イスラーム⼤学教授)、ヤフヤー・M・ミショット⽒(ハートフォード・セミナリー教授)による講演がなされた。以下、その概要を示すことにしたい。

ジョナサン・マゴネット
1人目の講演者であるマゴネット氏は、「共生」に対する評価の多様性や、現代における宗教間対話の重要性について論じた。マゴネット氏によれば、19世紀以降のユダヤ教は、近代欧州におけるユダヤ教の否定的経験と、ユダヤ教、キリスト教が共有していたとされるイスラーム統治下スペインを対いして捉えることが多い。だが最近の研究では、イスラーム統治下スペインにおける三つの宗教の関係は共生というより、重層的な互恵関係であったということがあきらかになっている。三宗教の相互作用は、教理などの面からだけでなく、法、社会、政治、文化等の要素、そしてなによりそれらの背景をなす帝国という要素をふまえて捉えるべきである。共生への評価は、時々の政治的諸力により変化する。いまでは、一般に共生は好ましいものとみなされる。しかしある種のコンテクストでは、共生が否定的に評価されることもある。実際、今日も一部で共生に対する否定的評価が広まりつつある。そこには過酷な政治的現実(イスラーム主義の台頭など)を含む様々な政治的諸力が影響している。
また世俗化した西洋社会において、三つの宗教はアイデンティティと信仰を再定義する必要に絶えず迫られている。この結果として、同じ宗教内において、近代主義者と原理主義者が対立するようになっている。その一方で、他宗教の信者に類似の立場を三出すといったことも起こっている。普遍的価値は宗教を超えるものである。三つの宗教は、互いを尊重し、差異を認めつつ、経済や環境の問題、社会的正義、政治状況等への関心を共有し、共生すべきである。そして宗教間対話は、これに寄与することができる。

ポール・R・メンデス=フロール
二人目の講演者であるメンデス=フロール氏は、「寛容」に対する評価の変遷や、真の寛容を実現する手がかりなどについて論じた。メンデス=フロール氏によれば、18世紀以前のフランス語では、「寛容」は悪の容認を意味する否定的な語だった。寛容が市民的道徳になったのは、近代国家と世俗的制度が生まれてからである。
近代の自由主義者たちは、寛容のためにはキリスト教徒とユダヤ教徒の相互無関心が必要だと説いた。これは一神教への挑戦といってよい。つまりそこでは、信仰的に妥協せずに、寛容を実現できるのかが一神教に対して問われているのである。
宗教的信念の相対性を認める立場をとるならば、この問題は緩和される。今日でも一部の論者はこうした立場をとっている。この立場によれば各宗教は本質的に同一で、差異は重要ではない。だがこうした相対主義的な寛容は神学的美徳ではない。真の寛容は、宗教的信念や各宗教の特徴を尊重し、互いに理解しあうものであるべきだ。
こうした真の寛容の手がかりとなるのが、1920年代にドイツの雑誌『Die Kreatur』(創造物)においてなされた対話である。そこでは信仰を放棄することではなく、すべて神の創造物であることが重視されていた。この雑誌の編集者のひとりだったブーバーによれば、対話とは、神に創造された固有の存在たる「汝」との出会いである。神の創造物であることが、人々を結びつけるのである。

イブラーヒーム・ザイン
三人目の講演者であるザイン氏は、三つの一神教の対話の可能性、とりわけ対話による価値発見の可能性について論じた。ザイン氏によれば、一神教における神は、アブラハム、モーセ、預言者の神であり、このことがユダヤ教、キリスト教、イスラーム共通の神学的基盤となる。そしてこの神は、形而上学的で空疎な神ではなく、生きた、思いやりある神である。それゆえに一神教の信者にとって、神は価値判断や人間の行為と常に結びついている。したがって三つの宗教の対話は、倫理的⾏為における価値を発見し、その価値を現実化することを目指してなされるのがよい。
この対話に加わる信者は、自分たちが真理を所有していると考えるのではなく、新たな価値の発見と実現のため、真理を追究しつづけ、他宗教の信者と学びあうことになるだろう。この対話の狙いは人間の行動における価値の再発見であって、相手を改宗させることではない。共通の神学的枠組みを構築するといった、統一の試みも無意味だ。差異は尊重され、理解されるべきものである。会話に神学上の課題はもちこむべきでない。ある宗教における神学上の課題が、他と共有できるとはかぎらないからだ。三つの宗教は歴史的な語りを共有するが、その解釈はまったく違うことがある。
しかしこの埋められないギャップが、会話を意味あるものにする。対話をとおして、異なる宗教の人間が、一緒に価値を発見する力をもっていることを知ることができるだろう。

ヤフヤー・M・ミショット
四人目の講演者であるミショット氏は、中東の民主化運動やイスラームにおける「ジハード」の意味などに言及しつつ、正義の問題について論じていった。ミショット氏によると、イスラームにおいて神を崇拝し、仕えることは、世界への責任を負い、公正と正義のために立つことと表裏一体である。そして公正と正義を実現する道は、すべて、イスラームに適っている。ゆえにムスリムは、イスラーム以外の、さまざまな聖典あるいは理性にもとづく原理も受け入れることができる。そして正義はアブラハムの宗教ばかりか、すべての人が要求するものである。預言者らは、人間はあくまで神に仕えるものであって、それ以上のものではないと説いた。つまり、今日みられるように、他者を脅したり、虐げたり、また環境を破壊したりしてはならないということである。この意味では、今日、正義が一層重要になっている。
またクルアーンは、ムスリムに他宗教の人々と交流するよう命じている。ここで大切なのは、神の性質についての議論や、信仰の押しつけではなく、共に正義のために立ち、学びあうことだ。
最近非暴力的なデモにより、アラブ諸国の独裁政権が倒されている。これを西側の勝利で、今後ジハードはなくなると評する者がいる。そうではない。ムハンマドいわく、最も高貴なジハードは、独裁者の前で真実と正義を語ることである。つまりあの抗議デモこそが、最も高貴なジハードなのである。高貴なジハードを、宗教を超えて支援することはできないだろうか。
 講演後、パネルディスカッションが行われた。そこではまず、司会の小原克博氏(CISMORセンター長)より、多数派の宗教と少数派の宗教のあいだで対話を行なうことの困難さについての指摘があった。その上で、そのような非対称的な場において、宗教間対話を進め寛容を実現するためにはどのようにすればよいのか、講演者のあいだで積極的な議論が交わされた。

(CISMORリサーチアシスタント 杉田俊介)
【プログラム/スケジュール】
◆講演会
ゲストスピーカーによる講演
ヤフヤー・M・ミショット
ジョナサン・マゴネット
ポール・R・メンデス=フロール
イブラーヒーム・ザイン
◆パネルディスカッション
パネリスト:
ヤフヤー・M・ミショット
ジョナサン・マゴネット
ポール・R・メンデス=フロール
イブラーヒーム・ザイン
小原克博(同志社大学 教授/CISMORセンター長)

※英語講演・同時通訳あり
※入場無料・事前申込不要
【主催】同志社大学一神教学際研究センター
講演会プログラム