公開講演会

「日本におけるユダヤ人/ユダヤ教研究」プロジェクト

パウロとユダヤ教

日時: 2016年09月24日(土)13:00-15:00
場所: 同志社大学今出川キャンパス 神学館チャペル
(京都市営地下鉄烏丸線「今出川駅」下車3番出口徒歩3分)
講師: 村山盛葦 (同志社大学神学部神学研究科・教授)
勝又悦子 (同志社大学神学部神学研究科・准教授)
要旨:
 本講演は、「日本におけるユダヤ人・ユダヤ教研究」プロジェクトの一環で開催されたもので、パウロとユダヤ教について、ユダヤ教側(勝又氏: 「ユダヤ教・ユダヤ学から見たパウロ」) とキリスト教側(村山氏: 「パウロから見たユダヤ教」) の視点から検証しようとするものである。
 勝又氏は、パウロ研究がユダヤ教徒としてのパウロに高い関心が昨今高まっているのに対して、ユダヤ学においては、パウロは「外の人」、キリスト教側に行ってしまった人という理解が強いことを指摘した。それは、パウロの同時代のラビ・ユダヤ教研究の関心がイスラエルの地にあり、ディアスポラのユダヤ教への関心の低さを反映しているのかもしれない。そもそも、パウロの同時代ユダヤ教文献には、パウロや出身のタルソスについての言及は皆無であることも一因である。
 そこで、パウロがユダヤ教世界と異邦人世界の境界にあったことを考え、同時代のユダヤ教文献での中でも最も初期に編纂されユダヤ教生活の規範の集大成となった『ミシュナ』中の「多神教徒(オベド・コハビーム: 星々の崇拝者)」、「異邦人(ノクリー)」、「キリスト教徒(ミーニーム)」に言及している資料を分析した。まず、ミシュナでは、「異教徒」(オベド・コハビーム) が多用されており、一神教の自分たちと「多神」教である他者との区別が自覚されていると考えられること、第二に、その異教徒と実生活上での様々な接触、交渉があったことを示唆していることが理解された。そして、異教徒との様々な規定の中で、ユダヤ教徒は実行しなければならない様々な律法が異教徒には免除されることが多々あることが分かった。つまり、異教徒世界との境界において、ユダヤ教徒に課せられる律法の数々はそれ自体が絶対ではなく、ユダヤ教徒であるから実行しなくてはならないものであることを自覚させるものであり、ここに信仰と行為に関する解釈に変化が生まれたのではないかと考えられる。それが「それ自体汚れているものは何もない」( ローマの信徒への手紙14.14) 等のパウロの律法理解の背景にあるのではないかと指摘した。
 村山氏は、ユダヤ教には様々な分派があったことを説明し、パウロの回心体験や、パウロ書簡が終末を見据えて中間期を歩んでいるという特殊な観点から書かれているという点を汲むことなしに、より正確なパウロ理解はできないと指摘した。そして、パウロが初期ユダヤ教諸派が共有していた神学や旧約聖書(七十人訳) をどのように再解釈したのかという点について検証をおこなった。
 はじめに、パウロが継承したユダヤ教の神学思想の中でも異邦人巡礼に着目することで、パウロが異邦人と信仰についてどのような再解釈を与えているか考察された。村山氏によると、パウロは肉の割礼ではなく、心の割礼(倫理的な徳目の遵守) (エレ4:4; 9:25; 申10:16) の重要性を説いている。さらにパウロは、「神の民」の入会条件をキリスト信仰のみとした。このような神学思想は、異邦人の救いを視野に入れたユダヤ教の普遍主義を極致にまで、結果的に世界宗教としてのキリスト教の礎を築くことになったという。次に、パウロから見たユダヤ教についての理解を深めるべく、神の審判、律法遵守、神の言葉の授与、選民、同胞・同族意識といった観点をパウロ書簡から繙いた。また、初期ユダヤ教の神学思想とパウロ神学との共通点や、パウロによる旧約聖書の引用についても精査された。
 我々の宗教理解は、ユダヤ教とキリスト教の緊張・衝突という歴史に過分に影響を受けており、そのため両宗教の教義に見られる差異に注目されることが多かった。しかし、本講演で行われた史料の検証により、パウロ神学は初期ユダヤ教の神学思想を継承・再解釈しているのであって、ユダヤ教を否定しているのではないと判明した。パウロにとってユダヤ教は、彼の神信仰と歴史理解をはぐくんでくれた母体であった。すなわち、初期ユダヤ教の神学思想はパウロ神学を形成する上で欠かすことのできないものであったのである。
(CISMOR特別研究員 川本悠紀子)
※入場無料・事前申込不要
【主催】同志社大学一神教学際研究センター
【共催】同志社大学神学部・神学研究科
20160924ポスター
20160924プログラム
20160924配布資料(村山)
20160924配布資料(勝又)