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ユダヤ哲学とは何か ―中世の観点

公開講演会

ユダヤ哲学とは何か ―中世の観点
What is Jewish Philosophy? The Medieval Perspective

日時: 2015年12月20日(日)13:00-15:00
場所: 同志社大学今出川キャンパス 神学館チャペル
(京都市営地下鉄烏丸線「今出川駅」下車3番出口徒歩3分)
講師: ジョセフ・スターン(シカゴ大学哲学科教授/ユダヤ研究シカゴセンター センター長)
要旨:
ユダヤ哲学は何かという問いに、ユダヤ哲学が何ではないという問答形式でスターン氏は説明した。それはヘブライ語でなされた哲学という意味ではない。アレクサンドリアのフィロンはギリシア語、イスラーム文化圏で活動したマイモニデスはユダヤ・アラビア語(ヘブライ語文字によるアラビア語)で著述した。またユダヤの出自を持つ者がユダヤ哲学者になるというわけでもない。Abner of Burgosなどはキリスト教に改宗し、司教になったにも関わらず自身をユダヤ哲学者であると考えた。また特定の学派あるいは特定の趣向によって、中世ユダヤ哲学を定義することはできない。アリストテレス主義者、新プラトン主義者、神秘主義者などがいたからである。ユダヤ哲学をユダヤ教の哲学として捉える、すなわち今日私たちが言うところのユダヤ教の哲学的基盤として捉えることができる。ユダヤ教が主張しうる事柄を的確に表現した上で、不正確な信条を洗い出し、そして論拠を説明し、真理を強化するという営みである。ただし中世ユダヤ哲学は、形而上学、認識論、道徳哲学の他に自然科学も含んでいたことから、ユダヤ哲学というものを何か宗教的、神学的な主題に限定することはできない。
初期の中世ユダヤ教が哲学的思弁と出会う2つの道があった。最初の道はカラームを通じてであった。カラームの文字通りの意味は発話、言葉、議論、論証である。9~10世紀にかけて、カラームの精神をよく表すのが、ムアタズィラ派であった。彼らはクルアーンが求める義務的な信仰に対して、理性に基づいて体系的に説明を試み、また、論証を通じて、イスラーム教の正当化を試みた。このカラームの思想がユダヤ思想家のサアディア・ガオンに影響を与えた。サアディアは理性をもってユダヤ教の啓示について理解し、そして根拠付けようとした。彼は聖書が理性や科学で立証したことに反するのであれば、理性が聖書に勝ると考えた。彼は理性を重んじたが、アリストテレスやギリシアの伝統に則って注釈していく人間だと、自身を捉えていなかった。
ユダヤ教が哲学に出会った2つめの道は、広い意味での哲学、「ファルサファ」であった。9~10世紀にギリシア哲学、科学に関する著作がアラビア語に翻訳され、アリストテレスやギリシア伝統に関する注解の営みが続けられていた。これにつながるのが、アルファラビ、アヴィセンナ、アヴェロエスなどの著名なイスラーム哲学者たちであり、ユダヤ思想家のマイモニデスである。マイモニデスには、二つの相対する権威が見られる。一方ではトーラーと口伝があり、それに対するものとして、アリストテレスの著作である。これはまったく異なる二つの人間の完成に関する対立でもあった。一方は、敬虔主義であり、戒律の実践で達成できる完成、他方は知性に基づいた人間の完成、すなわち科学や知識を通じて達成されるものである。またこれは超越的な神と人格神の対立でもあった。超越的な神、すなわち永遠なる宇宙の運動と存在にとっての必然的に実在する原因としての神に対し、意志があって、身体、感情をもつものとして表現される人格神、無から世界を創造し、歴史に介入し、そして自然を奇跡的に変えることができる神であった。
一連の中世ユダヤ哲学者たちを、一つの特定のユダヤ哲学という範疇に入れることを可能にするのは、彼らが共有した言説である。彼らは言説の領域において、共有する前提と語彙を有し、同じ知的空間に暮らしていた。彼らの営みは、哲学的に聖書を解釈するという解釈学として発展した。これは中世ユダヤ哲学が哲学全般に対して行った重要な貢献の一つであると言える。
(CISMOR特別研究員 平岡光太郎)
※英語講演・逐次通訳あり
※入場無料・事前申込不要

【主催】同志社大学一神教学際研究センター
【共催】 京都ユダヤ思想学会/同志社大学神学部・神学研究科
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