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ヨエル・ホフマンの創作:宗教と文化の交差点

公開講演会

ヨエル・ホフマンの創作:宗教と文化の交差点

日時: 2016年11月27日(日)13:00-15:00
場所: 同志社大学烏丸キャンパス志高館SK112教室
(京都市営地下鉄烏丸線「今出川駅」下車3番出口を北へ200m〈徒歩10分〉)
講師: イーガル・シュワルツ教授(ヘクシェリーム・ユダヤ・イスラエル文学・文化研究所所長、ベングリオン大学)
要旨:
 シュワルツ氏は、ホフマンの作品を引用しながら、彼の作品世界とその特徴について講演した。
 ホフマンを初めて読んだ人に共通の反応の一つは混乱であり、彼の登場以来、批評家や研究者は彼の作品世界を理解しようと様々に試みているが、私はそれをpost-apocalyptic(黙示的出来事後)の叙事詩であると考える。彼の芸術的偉業の背景にある哲学的前提は、post-apocalypticであるということ、すなわち第二次世界大戦中に文明世界は自死したということである。そして彼から見れば、ユダヤ人は西洋の道徳性と品位を明瞭に表す存在である。ホロコーストと共に西洋の文明、特にヨーロッパの普遍的な道徳的達成と合理的な哲学は死に、同時に彼の作品の中で形成される物理的世界も重心を無くした。彼の世界はこのような性格を持つゆえに、ホフマンはあらゆる奇抜さに惹かれ、その作品は奇異な言葉遣いで満たされる。登場人物は出身も時代も様々で、大抵はよくわからない事柄に関わっている。彼らは共通して独特な認知のメカニズムを持ち、それを私は「サイクロプスの目」と呼ぶ。彼らはサイクロプスの目を持つゆえに、他の人に見えないもの、そして他の人が見たくないものを見ることが許されている。
 一部の批評家は、第二次世界大戦を経て西洋近代型の「私(自己)」はバラバラに砕け散ったというポストモダンの哲学の結論の一つがホフマンの作品で展開する人間の状況にも言えると考え、また他の批評家は、ホフマンの作品での「私」とは仏教的な自己であるとする。私も彼の人間像は第二次世界大戦、ホロコーストという恐怖に深い影響を受けていると思うが、彼の「私」の概念は決してポストモダンでも仏教的でもなく、彼自身の詩学としての結論はポストモダニスムとは正反対のものだと思う。

ホフマン作品の研究者、批評家達は必ずと言っていいほどその独特の形式を取り扱う。特に目立つ部分に、パラグラフの各行が短い点があるが、私見では叙事詩、叙事文学はいずれも似た形式で書かれている。この叙事詩的な形式の使用は、ワイルドである一方で非常に細心で秩序に敏感な作家であるホフマン自身の気質に合っていると考える。
 ジャンルという文脈でのホフマンの独特な点は、どの作品も非常に抒情的な面が強いということである。この側面が一番よく現れているのは、彼が自分の作品の主人公を非常に親密(intimate)に取り扱っているという点である。ホフマンは主人公達を愛しており、彼自身が彼らと家族として繋がっている。この登場人物達への愛ある取り扱いの源には、ホフマンによるpost-apocalypticな世界の捉え方がある。彼は、人間の悲劇の源は、人間が意識ある存在であること、また自分はいずれ苦しんで死ぬという認識から逃れられないことにあると強く信じている。この認識論的事実ゆえに、彼は、人間、とりわけ自らの状況の本質的な不条理に意味を与えようとする人間が愛すべき存在だと考えるのである。ホフマンの倫理の特徴を一つ表すならば、私は「kindness」、全ての人に対する優しさを選ぶ。彼のkindnessは、とりわけサイクロプス達、すなわち国を追われた人、移民、幻覚を見る人、売春婦、未亡人、孤児、いずれも目が見えないが賢明な人達に向けられている。ホフマンの芸術的偉業のスピリットとは、辛辣な、グロテスクな側面を持つと同時に我々の心に触れ、涙をあふれさせる気持ちにさせるようなものであると述べ、氏は講演を締めくくった。
(CISMOR特別研究員 朝香知己)
※入場無料、事前申込不要
※英語講演、逐次通訳あり

【主催】同志社大学 一神教学際研究センター(CISMOR), 同志社大学神学部・神学研究科
【共催】バル・イラン大学ユダヤ学学部
20161127ポスター
【電子版】第9回CISMORユダヤ学会議