同志社大学 一神教学際研究センター CISMOR

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中東関係のはじまり:英国委任統治パレスチナと日本

公開講演会

第一プロジェクト公開講演会

中東関係のはじまり:英国委任統治パレスチナと日本

日時: 2011年02月26日(土)13:00−15:00
場所: 同志社大学今出川キャンパス 神学館3階 礼拝堂
講師: 石田訓夫(南山大学外国語学部 客員教授・CISMOR共同研究員)
要旨:
 石田教授の講演は、戦間期イギリス委任統治時代のパレスチナと日本の関係を主題とするものだった。日本と中東の関係について一般に知られているのは、主に第四次中東戦争とオイルショック以降のことに限られていて、それ以前は全く知られていないか、極めて断片的である。しかし実際には、日本とパレスチナをめぐる政治経済関係は既に第一次大戦直後から始まっていた。
 第一次大戦後の国際社会にアジアの新興勢力として参加した日本は、日英関係、日米関係を安定させ、列強としての地位を確立する必要に迫られていた。そのため日本が注目したのが、大戦後に欧米中心の国際社会に台頭しつつあったユダヤ・シオニストである。日本は欧米との協調関係を安定的に維持しようとシオニストの立場を支持したのである。日本は1918年末に、イギリスが発出したバルフォア宣言を、イタリア、フランス、アメリカに続いて列強の中では一番最後に是認している。この順番とタイミングから、背景にはパリの平和会議に臨んで、ユダヤ人問題について英米と足並みを揃えておきたいという日本の思惑があったことが推し量られる。事実、1920年代を通して、日本はシオニストと良好な関係を保つよう政策に配慮していた。
 この時期、パレスチナでは、委任統治国となったイギリスの主導で近代化、市場経済化が進められていた。第一次大戦中にイギリス軍が軍用に建設した鉄道は陸上交通の要となり、地中海からの海上アクセスも整備された。またユダヤ移民の流入によって人口が増加し、市場は活況を呈していた。アクセス改善と市場の活性化の結果、聖地巡礼、ビジネスなどのために、パレスチナを訪れる日本人も増加した。
 当時、日本はスエズ運河沿いのポートサイド領事館からパレスチナに関わっていた。ただ最初から日本は、パレスチナにおけるアラブ人とユダヤ人の対立問題について十分理解していたとは言い難い。日本がパレスチナにおける宗教問題の重要性と複雑さを明確に認識したのは、1929年、エルサレムでアラブ人とユダヤ人の衝突が起きるに至ってのことである(嘆きの壁事件)。この事件で、日本は、アラブ人とユダヤ人の両方に対しては第三者的立場をとりつつ、委任統治政府であるイギリスとの良好な関係を保つことの重要性を認識し、日本の中東政策の基本姿勢に据えていくのである。
 しかしながら、日本は1931年の満州事変を境に、国際社会から政治・経済的に孤立していく。パレスチナにおいてもユダヤ人の多くは満州事変を起こした日本の政治姿勢には批判的だったが、日本とパレスチナの経済関係は目覚ましく発展した。当時日本は、大恐慌後の保護主義で輸出が激減したところへ、さらに国際連盟脱退後は東アジア市場からも締め
出されて、政治経済的に苦境に陥っていた。一方パレスチナでは、ヨーロッパでのナチス台頭やユダヤ人差別政策による情勢の悪化によってユダヤの逃避資本と人が流入し、大恐慌後にもかかわらず経済発展と繁栄が続いて旺盛な需要があり、関税も日本に対し差別的ではなかった。その結果、アジア市場から締め出されて行き場を失った綿布を中心とする日本製品は、パレスチナにダンピング商品として大量に流入することになった。この奇妙な組み合わせによって、危機の時代にもかかわらず経済の相互依存関係は深まったのである。
 日本にとってパレスチナが貴重な輸出市場になったことに加え、近代設備の港湾として登場したハイファが中東各地への通商拠点として重要になってきたのに伴い、日本はパレスチナのハイファに名誉総領事を置くことを検討しはじめた。
 ユダヤ人、アラブ人、第三国人、いずれを名誉総領事に任命するのが通商上有利か検討された結果、地域への政治経済的影響力が大きくアラブ人とユダヤ人の両方に中立的な立場のイギリス人かあるいは第三国の外国人を任命することに方針が決まり、イギリス委任統治政府に人選を依頼することにした。日本側の申し出を受け、イギリス委任統治政府は、1935年にノーマン・ジョリーというハイファ在住のイギリス人海運ビジネスマンを日本側に紹介している。しかし、なぜかその後しばらくこの話は進展しなかった。おそらく、この時期のパレスチナ経済が1936年のアラブ人とユダヤ人の対立激化で打撃を受けて日本からの輸出も減少していたうえに、さらに政治面でも1936年の日独伊防共協定締結によって、日本外交が枢軸寄りになっていったことと関係があるのではないだろうか。しかしいずれにしても1938年になると事態は急転、ハイファに日本の名誉領事館が設けられてジョリーが名誉領事に任命されている。背景には、1937年の日中戦争開戦で日本は英米から強い非難を受けていたことから、局面を打開しようとする日本の外交的対策があって、イギリス人パレスチナ名誉領事の任命は英米での対日世論の悪化を食い止めるための切札の一つだったとおそらくいえる。しかし、こうした日本の意図が英米に理解されることはなく、世界は第二次世界大戦に突入していった。
 講演会後の研究会では、日本とバルフォア宣言をめぐる国際政治について、石田教授による補足説明があった。また大学院生を含む参加者との間で、戦間期の日本の対パレスチナ政策の特色、杉原千畝についての評価、日本における反ユダヤ主義の問題などについて、活発な質疑が交わされた。

(CISMORリサーチアシスタント 杉田俊介)
同志社大学 神学部・神学研究科 共催
講演会プログラム