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何のための対話か?――オランダにおけるキリスト者とユダヤ人――

公開講演会

一神教学際研究センター 公開講演会

何のための対話か?――オランダにおけるキリスト者とユダヤ人――

日時: 2006年01月14日(土)午後2時~4時
場所: 同志社大学 今出川キャンパス 神学館3階 礼拝堂
講師: エリック・オッテンハイム (オランダ・ユトレヒト大学)
要旨:
オッテンハイム氏は、ユダヤ教に対してキリスト教がどのような態度をとってきたかを、オランダの豊富な事例を踏まえつつ歴史的に紹介した。まず氏は、公演を語る上での前提として自分がカトリックのキリスト教徒であることを明らかにし、グローバル世界での宗教間対話の目的と方法、危険性と可能性について言及した。公演の前半では、1948年以前のオランダにおいて、ユダヤ人に対するキリスト者の態度が紹介された。これは主に二つに分けられる。①1945年4 月、大戦中のオランダで、ある一部のキリスト者は反ユダヤ主義への抵抗とユダヤ人の具体的な救済を試みていた。この働きの背景には、ユダヤ人が終末において神に対する特別な役割を担っているというユダヤ人の認識があった。これは主に19世紀のプロテスタント・サークル(イサック・ダコスタとアブラハム・カパドーズ)の中で育まれたものである。②1948年以前のカトリシズムとプロテスタント改革派において当時支配的であったのは、現存のユダヤ教は神の恵みから排斥されているという見解であった。民族的な反ユダヤ主義には反対しつつも理念的にはこれを正当化したカトリックは、自らの社会的アイデンティティーの純粋性を保持するために必要な教義としてこの見解を維持していた。この一見異なる①と②の主張に共通していることは「置換の神学」にルーツを有している点にある。つまり、1948年以前のキリスト教は、神の聖なる約束がすでにユダヤ人からキリスト教へ移されているという認識においては変わらなかったのである。
公演の後半では、氏はまず第二ヴァチカン公会議でのユダヤ教に対するキリスト教の公式の声明に言及した。この声明では、イエス・キリストの処刑にユダヤ人は責任を持たず、彼らにとってアブラハムの約束は廃棄されていないという画期的な宣言がなされる。しかし氏は、この宣言も「何を言ってはいけないか」を言うにとどまり、「何を語るべきか」については十分に言及されておらず、カトリック神学全般から見ればまだ不十分であることを指摘した。また、氏は近年のオランダの事例としてプロテスタント教会で用いられている「聖金曜日の祈り」についての論争の一端を紹介した。この論争は「キリストの受難」と「解放された教会」を扱ったこの祈りの文言が反ユダヤ的であるという批判から始まったものであり、実践的な宗教行為の現場で両宗教の関係を単純に結論づけることができず、同時に中立的な立場にも立てないという現実の問題の難しさを浮き彫りにしている。
以上の議論を踏まえ、氏は両宗教間には多くの問題があるが、キリスト教にとって聖書の民としてのユダヤ教との対話は必要であると述べ、公演を締めくくった。
コメンテーターのミッシェル・モール氏からは、両宗教間の対話がアジアの諸宗教との対話に拡大していく可能性や、「対話」と並ぶ「沈黙」の必要性が指摘された。会場では、EU憲法の中での宗教の位置づけや、「妊娠中絶」や「安楽死」についてのそれぞれの一神教の理解など、関心は多岐にわたった。

(COEリサーチアシスタント・神学研究科博士後期課程 森山徹)
当日配布のプログラム
『2005年度 研究成果報告書』p.571-584より抜粋