同志社大学 一神教学際研究センター CISMOR

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聖書イスラエルにおける一神教の再考

公開講演会

聖書イスラエルにおける一神教の再考

日時: 2005年03月31日(木)10:30~13:00
場所: 同志社大学 今出川キャンパス 神学館 礼拝堂
講師: ピーター・マシーニスト(ハーバード大学神学部教授)
要旨:
タルムードでは「他の神々の存在を否定する者は、皆、ユダヤ人と呼ばれる」が、これは「一神教」概念が聖書の中心思想であると人々が古くより理解していたことをよく例示している。しかし、一神教概念が、いつ、どのようにして存在したのかを厳密に学問的に考えると、そこには大きな問題が横たわっている。例えば、ドイツ、イスラエル、アメリカの重要な学者たちの論争は、三通りの考えを示している。
ドイツの学者は「一神教」という概念は「多神教」(多くの神々を信仰すること)概念が段階的な発達を遂げて、現在のような概念に到達したという仮説を掲げるが、イスラエルの学者は、聖書の信仰は当初より「一神教的」概念であり、多神教的な経験をしていない― だからこそ、聖書の偶像礼拝の理解が表面的なレベルに止まっているという仮説に立つ。アメリカの学者は、それらに対して、「一神教」の信仰という発想は歴史の当初よりイスラエルにはあったが、その発想をどのように表現するのかにおいて、幾つかの段階を経ていったと考えている。
この論争の中で、古代エジプトやメソポタミアやパレスチナの考古学的な発見は当然重要性をもち、聖書世界以外にも「一神教」的な信仰の可能性も考慮に入れる必要が十分にある。そして、この聖書外資料と聖書資料の関係は、研究者をして、複雑な「古代イスラエル」と「聖書的イスラエル」の矛盾と緊張関係を強く意識させることになる。
しかし、限られた時間の中で集中するべきは、多様な聖書資料のなかに表われるイスラエルの神観念の多様性とその変遷の可能性を理解することである。まず申命記32章他には、ヤハウェはイスラエルを自分の民とし、他の神々には他の諸民族の世話を割り当てたという神観念が認められる。しかし詩篇82:6-7では、ヤハウェが神々の会議の中心で、苦しむ人間を助ける役割を果たさなかった他の神々を責めて、それらの神々に対して「おまえ達をかつて神々と私は呼んだが、今からは、おまえ達は人間のように死ぬ」と言う。
このような驚くべき神観念の変化の結果、最終的には、第2イザヤの「もしあなたが神々であるのなら、何が古に起こったのかを語れ。また未来はどうなるのか予言せよ」(41:21-24;28-29他)「私は神である。私と等しいものはない。」(43:9-13;44:6-8他)という他の神々を認めない絶対的な一神教の神観念が生まれてくる。すなわち、多くの様様な神々の中から、ヤハウェの最高主権という神観念が確立され、その最高主権の神観念が絶対的「一神」観念が成立したと神観念のプロセスを整理できる。
しかし、氏が最後に強調したのは、歴史的なプロセスの中で、聖書の神観念は常に再考される不確定な観念であり、常に安定を求めての戦いの中にあるという認識である。

(大阪産業大学人間環境学部教授  手島勲矢)
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