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【研究者・学生対象CISMORセミナー】賀川豊彦の宗教概念 ー宗教と科学の双方関係を中心にー

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cismor セミナーシリーズ(第10回)

【研究者・学生対象CISMORセミナー】賀川豊彦の宗教概念 ー宗教と科学の双方関係を中心にー

日時: 2017年04月25日(火)15:00-16:30
場所: 同志社大学今出川キャンパス クラーク記念館CL25教室
(京都市営地下鉄烏丸線「今出川駅」下車3番出口徒歩3分)
発表者:
  • スティグ・リンドバーグ (京都大学大学院文学研究科 応用哲学・倫理学教育研究センター 助教)
要旨:
賀川は色々な意味で時代を先駆けた思想家および運動家だった。東洋人でありながら、西洋の宗教・哲学・科学に親しみ、その東西の交差点に独自の宇宙観を編み出した。賀川は、物質世界を深く突き詰めた形而上学哲学者、あるいは特殊な現代自然神学者だったと言える。
 賀川の宗教概念には 3 つの主題があった。すなわち、「宗教と科学は異なる認識論的領域であるが、相補的な関係にあること」、「宗教は本質的に進化的であること」、そして、「(賀川が主張する)進化的宗教は、パウロが主張する『キリストの姿へと成長していく』という神学と本質的に同じであること」である。この3つの主題について、Lindberg 氏は、「賀川の世界観」「賀川にとっての宗教」「自己意識への批判精神」「宗教と科学」「信仰対事実」「宗教の進化」「現代の神学への適用」などのサブテーマを提示した。その幾つかを紹介する。
 まず、「賀川の世界観」について。賀川によれば、現象界は物質とともに始まり、後に意識が発展する生命へと展開する。物質は具現した神の自己表現であり、それゆえ相対的に、創世記の「無からの創造」にあるような「他者」では無い。神性におけるその起源の故、物質はその源に(再び)つながることを欲する。しかし、その劣等な地位の故に、現象界(「創造物」)は神的なとりなしを必要とする。この介在が宗教であり、イエス・キリストにおいて具現化される。
 次に「賀川にとっての宗教」について。賀川の宗教理解は様々に表現されるが、おそらく、その最も根本的な表現は、超越や全体性に対する意識(認知)への人間の反応である。それは、それぞれ個人がより大きな実在/計画の一部であるという意識であり、細胞がそれ自身生命を持ちながら器官を形成する、あるいは、より大きな目的に仕えるようなものである。賀川はこの意識を「連帯責任」と呼び、イエスが歴史上におけるその初めての人として理解され、人間における発展した意識の頂点として同定されると主張した。宗教は永遠につながる時間と、無限に拡がる空間と、それに充満する生命の問題から割り出される単なる安全の道ではない。それは、冒険的な十字架を選ぶものであり、人間と人間との単に表面的な関係だけではなく、ただ一人でいる時にも、宇宙全体に対する責任から彼の生活を決定し、宇宙意志に添わんとする大きな努力を必要とするものである。つまり宗教は道徳よりも根本的なものであり、それは生活全体の焦点をなすものである。
「自己意識への批判精神」について。何故、自己意識が賀川と彼の宗教理解にとってそれほどまでに重要だったのか。それは、神を思い描き、解釈するのが自己だからであり、それゆえ、自己を理解することは誤った、そして有害な神理解から自らを解放する最初の一歩だからである。賀川は、社会における科学の卓越、社会の価値に寄与するその力を認め、それに伴う宗教の周辺化を嘆いた。彼は、宗教とはそれ自体生命であり、それを科学から分離しようとするのは馬鹿げていると主張した。宗教は価値の創造、評価、保存、そして修復の運動である。
最後に「宗教と科学」における相補性について。科学とは神を見出す特に有用な手段である。しかしながら、我々が神の徴を捜し求めるための科学の利用以前でさえも、神は我々を知り、我々の良心を通じてコミュニケートしている。宗教は、宗教を浄化し、それを聖なる芸術へと変える科学に対して、ある責任を持っている。逆に言えば、宗教は科学に、人間の主観性におけるその源を想起させる役割を持っている。宗教と科学は分け隔てられた領域では無く、我々の生活に実体を与えるために協働している。科学は生命の外的領域と宇宙の構造を探究するが、宗教は生命の内的領域と、それがどのようにして発展していくかを探究するのである。
 賀川豊彦に関する上記のようなLindberg 氏の発題に対し、活発な質疑応答が行われた。


(CISMOR特別研究員 北村徹)
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