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CISMOR若手研究会シンポジウム 公開講演会「マルティン・ブーバーの聖書解釈」

公開講演会

CISMOR若手研究会 シンポジウム「マルティン・ブーバーの思想とその聖書解釈の可能性 ―ドイツとユダヤの間で―」

CISMOR若手研究会シンポジウム 公開講演会「マルティン・ブーバーの聖書解釈」

  • マルティン・ブーバーの聖書解釈1
  • マルティン・ブーバーの聖書解釈2
日時: 2010年05月15日(土)13:00−14:15
場所: 同志社大学今出川キャンパス 神学館3階礼拝堂
講師: 木田 献一(山梨英和大学 前学長)
要旨:
木田氏の講演は、マルティン・ブーバーの聖書解釈、特にその古代イスラエルのテオクラティー(神政政治)論についてのものであった。木田氏によると、ブーバーはその生涯において、四冊の聖書解釈書を著している。『神の王国』、『預言者の信仰』、『モーセ』、『油注がれたもの』がそれであり、いずれも邦訳されている。なお木田氏はこれら四冊の聖書解釈書にくわえ、CISMORの研究テーマ(文明の共存と安全保障)との関連で重要な著作として、『ひとつの土地にふたつの民』のことも紹介された。木田氏はこれらの著書のうち、主に『神の王国』を参照しつつ、ブーバーによる古代イスラエルのテオクラティー論を紹介していった。
 この本でブーバーはまず、「士師記」のギデオンの言葉――「わたしは、あなたたちを治めない。息子もあなたたちを治めない。主があなたたちを治められる」(士師記8:22)――を手がかりにして、初期イスラエルにおけるテオクラティーの考え方を明らかにしている。「士師記」によれば、ギデオンは神の霊を受けて士師となり、敵を撃退する。これに感謝した人々は、ギデオンに王になるように依頼するが、ギデオンはこの依頼を断り、本来の仕事である農民に戻ると告げる。上のギデオンの言葉は、人々の依頼を断る際にギデオンが述べたものである。この言葉からうかがえるのは、王は本人の意志や世襲によってなるものではなく、神に選ばれ、その霊を受けたものがなるべきものだという、古代イスラエル民族の思想である。
 次にブーバーは、古代イスラエルにおけるこうした王の概念と対比させつつ、古代オリエントの主要三文明 (エジプト、バビロン、南アラビア)のイデオロギー的色彩の強い「神王」にかんする神話を検討している。これらの文明は大きな河川の周辺に広がっており、肥沃な土地がある。支配階級は、武力で土地を支配し、農奴を働かせ、権力と富を蓄積していった。そこで形成されるのは、多数の農奴と、そこから完全に区別された支配階級から成り立った社会である。そして、こうした王権に神学的権威を付与するのが、古代オリエント文明における「神王」概念であった。ちなみにブーバー自身は言及していないものの、木田氏によればシュメール神話における「神の子」概念についても、同様のことが指摘できるという。
 ブーバーは、これら古代オリエントの主要三文明の「神王」概念が、古代イスラエルのテオクラティーの考え方と対照的であることを指摘する。古代イスラエルは、肥沃な土地を背景にもたない、農民や牧羊者を中心として成り立った社会であり、農奴と支配階級のあいだの断絶が存在しない。こうした背景のゆえに、イスラエルのテオクラティーは、支配階級を正当化するものではなく、むしろ貧しい民を中心とし、彼らを守り助けるためのものとなった。古代イスラエルにおいては、神が真の王として民族の先頭に立ち、彼らを救う。そして、そのような神に服従し、民を守り、救うのが古代イスラエルにおけるメレク(王)であった。すなわち自らを犠牲にして、民のために身を挺して戦うというのが、古代イスラエルのテオクラティーにおけるメレク(王)の基本線である。「出エジプト記」のモーセや「イザヤ書」の苦難のしもべも、この基本線上に位置づけられる。
 また木田氏によれば、紀元前2-1世紀になると、自分を犠牲にして民を救う王のイメージが、より強くなっていった。そのイメージは、キリスト教のメシアであるイエスにも重なるものである。ブーバーが捉えたイスラエルのテオクラティーの考え方は、ユダヤ教のメシア像がキリスト教のメシア像につながっていく過程をも示唆するという意味でも、重要なものであるという。

(CISMORリサーチアシスタント 杉田 俊介)
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