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宗教的伝統と近代的価値の対立と合意

公開講演会

宗教的伝統と近代的価値の対立と合意
The 2nd Joint Conference on Values in Religion

  • 宗教的伝統と近代的価値の対立と合意1
  • 宗教的伝統と近代的価値の対立と合意2
日時: 2013年09月21日(土)13:00-15:30
場所: 同志社大学今出川キャンパス 神学館3階礼拝堂
講師: Prof. Mohamed Hawary(アイン・シャムス大学)
Prof. Hanan Rafik Mohamed(カイロ大学)
小原 克博 教授(同志社大学)
要旨:
 講演会は、Gamal Abd El Samea El Shazly氏(カイロ大学教授オリエント研究センター長)による挨拶をもって始められ、それにひきつづいて3名のスピーカーによる講演が行われた。
 Mohamed Hawary氏は、“Concept of Justice in Judaism and Islam”(ユダヤ教とイスラームにおける正義の概念)と題して講演した。ユダヤ教において「正義を実践する」ことは、創造主の意思に従って生きることである。ヘブライ語のTzedakahは英語のCharity、アラビア語のSadaqahに相当する語であり、収入の10分の1を貧しい者に施すユダヤ教徒の義務のことである。ユダヤ教において社会正義は中心的位置を占めている。ユダヤ教の理念で特徴的なのは「責任の倫理」であり、これはsimcha(喜び、楽しみ)、tzedakah(慈悲や博愛を実践する宗教的義務)、chesed(親切な行為)、tikkun olam(世界の修復)の概念に反映されている。
 ヤハウェは正義が他の国にではなくイスラエルの民の側にあることを示す。ユダヤ教は普遍的な宗教であり、ユダヤ人の選民性を主張するものでないとする声もあるが、ユダヤ人は、「神はこの地のすべての民にトーラーを授けたが、それを受け入れたのはユダヤ人だけである」、「神の目には、ユダヤ人は特別な存在として映っている」と考えている。
 イスラームにおいても、クルアーンはあらゆる行為において正義の実践を説いている。正義とは他者を平等に遇することである。人種、宗教、肌の色、信条の違いを越えて、友に対しても敵に対しても等しく正義を実践することを求める。社会正義を構成する要素の一例は、五行の一つであるZakat(喜捨)であり、一定の財産をもつムスリムは年に一度の喜捨が義務づけられている。Zakatは、アラビア語で「浄化する」、「成長する」を意味する単語である。Zakat以外にもSadaqah(自発的な施し)も奨励されている。人間の平等性を受け容れることと人権を認めることはムスリムに課せられた宗教的義務である。すべての人間はアダムの子孫であり、兄弟姉妹である。
 Hanan Rafik Mohamed氏は「宗教的価値観と現代エジプトのヒジャーブ観」(Religious values and the concept of Hijab in Egypt now)と題し、ムスリムへのアンケート調査を示しつつ日本語で講演した。
 日本では、ムスリムの女性はヒジャーブの着用が義務づけられていると考えられているが、必ずしもそうではない。カイロ市内では、ヒジャーブを着けていない人もいるし、子どもはヒジャーブをかぶらない。
 ヒジャーブに関するクルアーンの節には「またあなたがたが、かの女らに何ごとでも尋ねる時は、必ず帳の後からにしなさい」(クルアーン33章(部族連合)53節)とある。ヒジャーブ支持者は、すべての女性が異性と接触するとき、必ずヒジャーブしないといけないと考え、反対者は、この節は預言者の夫人たちに限られたものであるとする。
 ヒジャーブを着用していない女性へのアンケート(103名、17歳から64歳)で、ヒジャーブを着用した経験について問うと、回答は「はい」62名、「いいえ」41名であった。着用しない理由は次のようなものであった。ヒジャーブはムスリムが守るべきこととされている六信五行にも含まれていない。着用は個人の問題である。ヒジャーブのことで社会の不正から目を逸らしてはならない。道徳的なことがより重要である。「オシャレ」は宗教的価値とは別のものである。エジプト社会における女性の服装の多様性は、宗教的価値観と現代的価値観との間の争いや摩擦を反映しているのではなく、調和の一種を反映している。
 小原克博氏は、「日本宗教は近代的価値観にどう向き合ってきたのか」(How have the religions in Japan been encountering the modern values?: A lesson for the post-secular age)と題して、ポスト世俗主義時代への教訓を語った。自民党の「日本国憲法改正草案」は、公の秩序を強調している。明治憲法の第28条は、信教の自由を明文化したものであるが、公の秩序を乱さない限りという制限付きであり、宗教弾圧の道具として使われた。こう述べた上で、小原氏は以下四点について論じられた。
(1)なぜ、宗教が問題なのか
 西欧社会にキリスト教が果たしている役割に驚いた明治の指導者たちは、日本が西欧の圧力に負けない近代国家になるには天皇を中心とした祭政一致が不可欠と考えた。信教の自由は、内発的にではなく、外交上の圧力によって憲法に規定された。
(2)忠誠の中心はどこに?
 中世ヨーロッパにおいてそれは、教会、教皇、最終的には神であった。近代国家では忠誠の対象は国家にシフトしてきた。マーク・ジョーギンスマイヤー(Mark Juergensmeyer)の「ナショナリズムと宗教とがもつ、殉教と暴力に道徳的許可を与えるほどに、明確に中世の共通様式が現れているものは、他のどこにも存在しない」という言葉のように、世俗的ナショナリズムと宗教は、愛国心と宗教的信条によって死を正当化、美化してきた。死の美化には十分警戒する必要がある。
(3)世俗世界の限界
 政教分離すれば民主化が進むのであろうか。私的と公的、宗教的と世俗的の二分法とそれに基づく政教分離では問題は解決しない。政教分離は西欧社会の中でつくり上げられてきた原則であり、同じことを他の社会に適応することはできない。むしろポスト世俗主義の社会に生きていることを認識すべきである。
(4)教訓と課題
 日本の場合、公共性の形成を国家が主導し、共通の善を示してきた。それは結果的に異質なもの、マイノリティーを排除してきた。公の秩序に同調させることによって、社会全体を戦争に引っ張っていったという経緯もある。他者との対話の場を積極的にもつことが必要である。3.11以降、原発問題も西欧的価値観のゆえだとして、日本と西欧を二元対立的にとらえ、日本的な価値観を強調する見方が広がっている。このような二元論的枠組みから、偏狭なナショナリズムが生まれてこないとも限らない。他を排除しないような異文化の語り方を養っていく必要がある。  (CISMORリサーチ・アシスタント 佐藤泰彦)
※講演言語:日本語および英語、逐次通訳あり        
※入場無料、事前申し込み不要   
【概要】                       
2013年2月にエジプト、カイロにてオリエント研究センターとの共催で国際会議"Values in Religion"を開催いたしました。その第2回目となる今回、場所を同志社大学に移し、テーマを「宗教的伝統と近代的価値の対立と合意」と掲げ、カイロ大学と本学から3名の研究者の講演をお届けします。                                                                
主催: 一神教学際研究センター(CISMOR)、カイロ大学オリエント研究センター     
共催:同志社大学神学部・神学研究科  
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