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イスラエル北部のテル・エンゲヴ遺跡とテル・レヘシュ遺跡の発掘調査

公開講演会

日本オリエント学会共催講演会

イスラエル北部のテル・エンゲヴ遺跡とテル・レヘシュ遺跡の発掘調査

日時: 2010年06月19日(土)14:00−16:00
場所: 同志社大学今出川キャンパス 明徳館1階 M1教室
講師: 山内紀嗣(天理大学付属天理参考館 学芸員)
要旨:
 講師の山内先生は、日本考古学が専門だが、イスラエルの考古学調査でも貴重な発掘成果を上げてこられた。今回の講演会では、日本隊が本格的な発掘を行った3つの遺跡のうち、先生が参加されたテル・エンゲヴ遺跡とテル・レヘシュ遺跡の発掘成果を解説していただいた(もう1つはオリエント学会が1960年代に発掘を始めたテル・ゼロール遺跡だが、政治的事情で1974年に中断)。
 両遺跡はともにイスラエルの北部、シリア、レバノンとの国境地帯に近いガリラヤ地方に位置する。ガリラヤには、イスラエル最大の淡水湖で、ヨルダン川が通じるガリラヤ湖が存在し、ヨルダン川を経てさらに南に下ると、死海に至る。また、地中海とアジアを結ぶ交通の要衝・イズレル平野にも近い。
 ガリラヤ湖の東岸に位置するエンゲヴ遺跡は、紀元前10世紀の鉄器時 代2期からヘレニズム時代を経て、ローマ時代にいたる歴史を持つ。『旧約聖書』の「列王記」に記述がある「アフェク」とも言われるが、これまでは1961年のイスラエル隊の試掘で概略が分かるのみであった。1990年に始まり、2004年に終了した日本隊の発掘調査で、その詳細が相当明らかになった(2009年には、慶應大学の調査隊が追加調査を行った)。
 いわゆるテル(「遺跡丘」)だが、4〜5メートルとあまり高くなく、大きさは南北約200メートル、東西120メートルである。日本隊による各層の発掘の結果、特に注目すべき遺構として、鉄器時代からは、ケースメトウォール(内部に土を詰めた二重式の城壁)と列柱式の建物跡(紀元前10世紀のものと、同8世紀のもの)が、またヘレニズム時代の層からも26部屋分の建物群が出土した。列柱式の建物の用途については、物資の集配場(エントリポット)と推定される。紀元前9世紀頃のキプロス系の土器も出土した。
 鉄器時代以前の遺構が確認されなかったこと、また城壁と建物が計画的に南北方向に正確に合わせて建設されていることから、紀元前10世紀に人工的・政治的意図によって突然作られたと考えられる。このことを示すように、シリア方面(アラム王国)からの襲撃を最初に受ける東・北の隅部分からは、物見櫓(タワー)の跡と考えられる遺構が出土した。鉄器時代の上層はペルシャ時代だが、ピット(ゴミ捨て穴?)が出土しただけである。ヘレニズム時代は、同遺跡とゴラン高原の間にあったデカポリスの1つ、ヒッポスの港町であったと考えられる。
 レヘシュ遺跡は、『旧約聖書』の十二部族の1つ、「イッサカル」の居住地とされるガリラヤ湖南西に位置している。2006〜09年の5次にわたる日本隊の調査まで、土器などの表面採取を除くと、全くの未発掘であった。北にタボール山があり、タボール川とレヘシュ川に挟まれた南北350メートル、東西250メートルの小判形の自然地形の丘陵上にある遺跡である。イッサカルの町として『旧約聖書』に出てくる「アナハラト」と考えられてきたが、最近行われたアマルナ文書(エジプト出土の粘土板文書)の胎土分析によって、この主張がほぼ裏付けられた。遺跡の歴史は前期青銅器時代からローマ時代に至るが、最盛期は後期青銅器時代から鉄器時代の初め頃と考えられる。この時代の遺構として最も特徴的なのはオリーブの搾油施設と思われる円形遺構である。鉄器時代の末期の長方形型のものを含めて合計5基見つかっているので、主な産業はオリーブ油の製造で、エジプトなどの都市との交易品だったと推定される(特に後期青銅器時代はエジプト支配時代で、エジプト由来と思われる出土物も発見)。また祭祀場と思われる遺構や、レバノン出土のものとよく似た特徴をもつ仮面、把手にナツメヤシをあしらったジャー(壺)などが出土した(すべて鉄器時代)。豊穣のシンボルであるナツメヤシは、『旧約聖書』の「生命の樹」につながった可能性がある。
 ヘレニズム時代は遺構が確認されず、断絶がある。ローマ時代は少ししか発掘できなかったが、寒村だったと思われる。ユダヤ教の儀式に使う石製の計量カップや、小麦粉を引くための臼が出土した。その後、人の居住はなくなる。
 講演中、山内先生は、発掘中に撮影された遺構や出土物の写真と、関連地図・資料などをスライドで多数紹介されて、古代イスラエルについての考古学上の最新の知見をとても分かりやすく説明された。

(CISMOR特別研究員 中谷 直司)
講演会プログラム
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