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発表1 “『使徒教父文書』に見るユダヤ教からの教会分離:プロレゴメナ”/発表2 “福音書のユダヤ人―歴史か物語か”

2011年度 研究会

発表1 “『使徒教父文書』に見るユダヤ教からの教会分離:プロレゴメナ”/発表2 “福音書のユダヤ人―歴史か物語か”

日時: 2011年10月30日(日)9:00-12:00
場所: 同志社大学今出川キャンパス 至誠館3階 会議室
発表者:
  • 発表1 浅野 淳博 教授 (関西学院大学)
  • 発表2 前川 裕 講師(同志社大学)
コメンテーター:
  • 発表1 村山 盛葦 教授(同志社大学)
  • 発表2 石川 立 教授(同志社大学)
要旨:
講師:
浅野淳博(関西学院大学)
「『使徒教父文書』に見るユダヤ教からの分離:プロレゴメノン」
前川裕(同志社大学神学部嘱託講師)
「福音書のユダヤ人?歴史か物語か」

 午前の部では浅野氏と前川氏による発表が行われた。浅野氏は、宗教・文化的同化作用と異化作用の観点から、『使徒教父文書』のうちの『バルナバ書簡』とイグナティウス書簡群を用いて、ユダヤ教が教会から分離する過程を概観した。氏はこれまでの研究から、パウロの律法やユダヤ教に対する否定的な表現は、弱小共同体の生き残りを目的とする肯定的アイデンティティー形成の試みの一環であると結論づけてきた。そして、そのような試みのなかで、信仰共同体の社会的位置の変化によって、共同体アイデンティティーの役割が「生き残り」から「支配の政治」へと移行する点を指摘してきた。今回の発表では、教会がユダヤ教から分離していく過程から、氏の議論を提示された。
 『バルナバ』の背後にあるキリスト者共同体は、異邦人世界にあって社会的不安と結びつけられていたユダヤ人共同体から距離を置き、明確な区別をつける必要を感じていたと考えられる。特徴的なキリスト論的で霊的な解釈を通して、著者はヘブライ語聖書、契約、神殿の意味を再定義し、神に対する誤ったアプローチを続けるユダヤ教とは異なるアイデンティティーをキリスト者共同体へ提供するのである。一方、イグナティウス書簡群の目的の一つは、律法遵守者と仮現主義者から教会を守ることであったと考えられる。イグナティウスは、ユダヤ人キリスト者と異邦人の律法遵守者がキリスト共同体の一致を妨げるのではないかと懸念し、キリスト共同体とユダヤ教との間にアイデンティティーの線引きをしなければならなかった。イグナティウスはキリスト共同体のアイデンティティーを確立するために、ヘブライ語聖書よりもイエス・キリストという「古文書」の重要性を強調した。したがってイグナティウスは、キリスト者のヘブライ語聖書解釈を正当化しながら、ユダヤ的な福音解釈を拒絶したのである。
 両テクストにおいて共通する論題は、ヘブライ語聖書の解釈である。ユダヤ教に深く根ざした教会において、その聖典をいかに扱うかが新興共同体のアイデンティティーを左右した。『バルナバ』においては、神殿崩壊を根拠としてその文字どおりの解釈の非正当性が教えられ、むしろキリスト論的な寓意的解釈が特徴的となり、また「主の声」という教会による解釈の優先性が強調された。イグナティウスは、「古文書=ヘブライ語聖書」が福音のためにあることから、ヘブライ語聖書の予型的解釈の正当性を教えた。浅野氏は二つのテクストから分離の過程を示したうえで、今後の研究において2世紀以降の文書を含む幅広いキリスト教文書を合わせた考察を続けていく必要性があることを述べて講演を締めくくられた。

 前川氏は、新約聖書の四福音書におけるユダヤ人についての多くの記述が歴史的事実を反映したものなのか、物語の中の虚構的な描写なのかということについて、文芸批評を方法論として用いながらそれぞれの福音書を考察した。福音書には実質的にユダヤ人を表す様々な表現があり、前川氏はそれぞれの福音書におけるユダヤ人についての様々表現を詳細に分析し、それらが果たしている文学的機能を考察された。
 共観福音書と呼ばれるマルコ、マタイ、ルカによる福音書における「ユダヤ人」の用例は顕著に少ない。それに対して、「律法学者」や「祭司長」、「ファリサイ派」は数多く見られる。逆に、ヨハネ福音書では 「ユダヤ人」の用例が非常に多く見られ、それ以外のものは少ない。共観福音書の記者たちは「律法学者」を読者に理解される用語と見なしたが、ヨハネ福音書記者は「ユダヤ人」がその役割を果たす語であるとして選択したのである。
 イエスと論争を繰り広げるのは、おもに指導者層である。彼らはイエスに対して、群衆とは別の立場を取ることが述べられている。指導者層に対する福音書記者の見方は、イエスの十字架という結果から捉えたものである。指導者層に関する記述部分は伝承というよりも、福音書記者がそれぞれ自分の執筆意図に合うように地の文として配置したといえるであろう。「祭司長」は指導者層の一人に数えられるが、受難物語においてはいずれの福音書でも大きな役割を占めている。このことから受難物語に関する資料伝承が比較的固まったものであったと推測できる。
 いずれの福音書にも「群衆」「大勢」と呼ばれる人たちが登場する。彼らは共通して、最初はイエスに驚き賞賛し、イエスに追随するが、受難物語では指導者層に唆されてイエスを十字架に掛けるよう要求する。これらの人たちを歴史的に考察するのは難しい。福音書記者の意図が大きく反映していると見るのが妥当である。当初は指導者層の意志とは関係なくイエスを信じ追従する者たちとされている。イエスが人々から支持されたということは繰り返し記されており、これは読者がイエスの評価を定めるための大きな参考点になるであろう。しかし受難物語では、イエスを非難する側に立つ。マルコやマタイでは、祭司長たちが説得し、また煽動したことになっている。ルカやヨハネではそのようなことは記されず、群衆が自発的に十字架刑を所望したという記述になっており、このような部分での各福音書の差は福音書記者の考え方の違いと見るのが適当であろう。
 四つの福音書における「ユダヤ人」についての記述を文学批評の方法を用いて検討した結果として、各福音書における記述は統一されたものではなく、福音書記者の意図を反映した創作的な部分が大きいことが判明した。伝承に基づくと考えられる内容において、一定の歴史性が福音書の背後にあることは否定できない。しかし現在われわれが所持している福音書の文面から、そのまま背後の歴史を読みとろうとする試みには十分な注意が必要である。以上のことから、前川氏は、福音書に描かれた「ユダヤ人」の像について、一定の歴史的内容をもとにしてはいるが、相当多くの部分が創作されたものであるという見解を示された。

(CISMORリサーチアシスタント 山下壮起)