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第7回ユダヤ学会議 中世ユダヤ文化の創造力:キリスト教思想・イスラーム思想との関係

研究プロジェクト

2013年度 研究会

第7回ユダヤ学会議 中世ユダヤ文化の創造力:キリスト教思想・イスラーム思想との関係

日時: 2013年06月29日(土)15:30~17:30
2013年06月30日(日)9:00~12:30、16:00~18:00
場所: 同志社大学今出川キャンパス 神学館G31
発表者:
  • マルク・サパーステイン(ジョージ・ワシントン大学)
  • ダニエル・デイビス(ケンブリッジ図書館)
  • ゼエヴ・ハーヴィー(エルサレム・ヘブライ大学)
要旨:
6月29日
■セッションB
Marc Saperstein
Medieval Jewish Cultural Creativity Influenced by Christian Models
(キリスト教的モデルに影響された中世ユダヤ文化の創造性)

 キリスト教はヘブライ語聖書やマイモニデスを尊重し影響を受けているが、ユダヤ教もキリスト教の影響を受けてきたことをSaperstein氏は以下のように提示した。
(1)悔い改め、告白、贖罪
 十字軍の迫害がつづく12世紀末に登場したドイツの敬虔主義運動は、「悔い改め」を強調し、ラビ・ユダヤ教には元来存在しない肉体苦行や告白形式を規定していた。これは信者への告白を定めた第四回ラテラノ公会議の時期と一致し、キリスト教の影響と見られる。
(2)身代わりの贖罪とメシア
 メシアに対するキリスト教とユダヤ教の見解の相違は、メシアの受肉と身代わりの贖罪の教義に見られる。しかし神秘主義の書Zohar(ゾハル)には、ユダヤ民族から苦難を取り除くことがメシアの役割の一部とされ「身代わりの贖罪」の影響が見られる。
(3)聖書解釈
 13世紀末から始まった聖書の四段階の解釈法(pardes)は、キリスト教の教義で用いられてきた解釈法を反映している。また当時の注解書は、エフタの娘の記事(士師記11章)で彼女は殺されずに世間から隔離されて生涯を送ったと解釈している。これはキリスト教の尼僧院の制度の影響と考えられる。
(4)説教への哲学的影響
 15世紀頃の説教は、タルムードの伝統的な思考法よりもアリストテレスやプラトン等の哲学的影響が大きく、三段論法やスコラ哲学の「論題討論」形式を用いるようになっていた。
(5)規範の対象
 キリスト教の礼拝や生活習慣と比べたユダヤ教徒の自己批判である。礼拝中の居眠りや私語への注意を喚起し、誠意や正直さ、公平さをキリスト教徒に見習うべきであると主張している。
 ユダヤ教徒はキリスト教世界から排除と迫害だけを受けていたのではなく、相互に相手から学ぶ創造的な交流があり、ユダヤ教はこの開放性によって生きつづけることができたとSaperstein氏は語った。この発表に対してDoron B. Cohen氏(同志社大学、講師)からコメントがなされ、その後出席者の間で活発な議論が展開された。   (同志社大学神学研究科博士後期課程 飯田健一郎)


■セッションC、D
 研究会は2つのテーマで行われ、第1部は“Aspects of Jewish Medieval Thought: Maimonides”(中世ユダヤ思想の諸相―マイモニデス)をテーマに2名の博士後期課程の学生が発表し、第2部は“Jewish Culture Encountering Muslim Thought”(ユダヤ文化とイスラーム思想の出会い)をテーマに二名の若手研究者が発表した。

神田愛子
Cosmology of Maimonides: Examining the Difference from Greek and Islamic Thought
(マイモニデスの宇宙観―ギリシアとイスラーム思想との比較において)
 天文学は古代ギリシアで幾何学の発展に伴い進展し、プトレマイオスの地球中心仮説はコペルニクスに至るまで支配的見解であった。古代ギリシアの文献は9世紀から13世紀にかけアラビア語に翻訳され、天文学はイスラーム世界が牽引した。ユダヤ人はそれらをさらにヘブライ語やラテン語に翻訳し、ラテン世界との橋渡し役となった。中世の哲学思想はアヴェロエスやアヴィセンナらによるアリストテレス註解が中心を占めたが、それは新プラトン主義の影響を受けている。マイモニデスの宇宙観も新プラトン主義の影響を受けているが、そこにはユダヤ伝統も色濃く反映されている。新プラトン主義的要素はファーラービーやイブン・バッジャの著作を通して入ったものと推察できるが、具体的にどこからどのような影響を受けたかを探るのは次の研究課題である。

法貴遊
The Generic Form and the Specific Property in Mainonides’ Medical Literature and Guide of the Perplexed
(マイモニデスの医学文献と『迷える者の手引き』における種の形相と特性)
 特性は四元素の混合から説明不能な薬品の作用である。アヴィセンナはこれを種の形相による作用と主張、四元素の混合は形相生成の作用因ではなく、種の形相が生じるには神的流出が必要とした。一方、アンダルスの医師の多くは、特性は物質間の適合による吸引作用だと主張した。マイモニデスはアヴィセンナと同様、特性を種の形相による作用と見、混合で説明不能な変化は形相から生じ、形相による変化は形相付与者が必要とした。彼はアンダルスの医師の経験知を評価するが、この点はアヴィセンナの哲学的観点を受容する。彼がこの語をアヴィセンナのAl-Qānūn fī al-ṭibb(医学典範)から得たのかは不明だが、これはアヴィセンナ抜きのアヴィセンナ的知識である。当時、この語がどの程度共有され、マイモニデスがこの知識をユダヤの医師にどう伝え、医学思想と実践に影響を与えたかは研究の必要があろう。

Daniel Davis
The Past Eternity of Time: A Maimonidean Response to Avicenna
(過去の方向における時の永遠性―アヴィセンナに対するマイモニデスの応答)
 アヴィセンナの見解は、マイモニデスがアリストテレスの見解としたものと同一である。マイモニデスは、創造は時間的でなく無時間的であり、世界創造の前に時はなく、時は存在する事物と共に創造されたと主張する。一方、アヴィセンナは、時は過去において無限に存在し、時間的に先行するものに時間的始めはなく、無限の時間はあり得るがそれは可能無限で実無限ではないという。問題は、マイモニデスが神の意志は神の知恵であり、神の意志と知恵は変化しないと語っていること、すなわち、神の意志は時間的ではないことであろう。彼は創造を、奇跡や預言、神意、神の個の知識と繋げて考える。神の知恵は神の意志であるがゆえに、奇跡は神の意志に関わり、科学は普遍を扱うがゆえに、奇跡は人間の知識に近づき得ない。人の知は個々の事物において無謬でなく、それは神のみが有するのである。

仁子寿晴
Eastward Advance of Andalusian Jewish-Muslim Culture from the 12th Century onward: Toward a New Vision of Islamic Thought
(12世紀以降アンダルスのユダヤ-イスラーム文化の東漸―イスラーム思想史の新たなビジョンを求めて)
 11世紀に至るまで、イスラーム圏の文化的中心は東方のダマスカスやバグダッドにあり、西方のアンダルスやマグリブは学的知識を東方から受け入れてきた。12世紀、サラゴサ王は哲学者を、トレド王は科学者を、セヴィリア王は詩人を援護したことで西方の学問が活発化し、翻訳を通じてそれらは欧州に流出、東方のシリアやペルシャにも影響を与えた。西方の科学の発展はサーイド・アル=アンダルーシーのKitāb ṭabaqāt al-umam(諸国の分類)から知られ、アル=キフティーとイブン・アビー・ウサイビアはさらにマイモニデスの名を加えた。マイモニデスは著作の大半をカイロで執筆したが、これはアンダルスの知識の伝播でもあった。アンダルスの天文学はマムルーク朝の天文学者に影響を与え、13世紀にペルシャに設置されたマラガ天文台にはアンダルスの天文学者も参加した。  (同志社大学神学研究科博士後期課程 神田愛子)

■セッションF
Warren Zev Harvey
Maimonides on the Meaning of ‘Perplexity’ (ḫayra = aporía)
(マイモニデスにおける「当惑」(ḫayra = aporía)の意味)
 研究会では、Zev Harvey氏により、マイモニデスの哲学的著作Dalālat al-hāʾirīn(The Guide of the Perplexed, 迷える者の手引き)の表題に掲げられている“perplexity”(ḫayra = aporía)の意味に関して考察が行われた。
 アラビア語の“ḫayra”は、中世の哲学的著作の中でギリシア語の“aporía”の訳として用いられた。“aporía”の語源は、「道のないこと」、「行き詰まり」を指し、また解決法が見出されない難題に当惑している状態をも表す。
 氏は、マイモニデスがDalālat al-hāʾirīnの中で想定した“perplexity”(ḫayra = aporía)の状態にある者、つまり「迷える者」を考察する上で、以下の5つの異なる例を提示した。
 (1)ヨセフ・ベン・ユダの例:ラビ・ヨセフ・ベン・ユダはまだ物理学に関する学習が完了していない段階で、師であるマイモニデスに形而上学ひいてはトーラーの秘義を学びたいと懇願した。しかし、十分な知識を伴っていない彼の性急な知の欲求は“perplexity”(以下、「当惑」)をもたらすものであると判断される。(2)聖書に含まれる語句の中には比喩的な表現が含まれていることを知らぬ読者(例:「主の手」出エジプト記9:3)、(3)聖書にみられる物語はアレゴリーが含まれていることを知らず逐語的に読もうとする読者(例:創世記3章でヘビが会話をすることは自然学の知識と矛盾する)、これら(2)と(3)の例は信仰と理性に関わる「当惑」に陥る。(4)物理学と天文学との間の矛盾に悩まされる者:マイモニデスはこれを「真の当惑」とする。「真の当惑」とは信仰と理性の矛盾の結果に起因するのではなく、物理学と天文学の矛盾に起因している。マイモニデスは、アリストテレスに関して、彼が問題を認識するための十分な数学の知識を有していなかったため、実際は「真の当惑」から免れたと結論づける。(5)マイモニデス自身:彼は物理学と天文学の間に生じた科学の危機を解明できない。
 以上、「迷える者」の5つの異なる例を挙げたのち、Zev Harvey氏はDalālat al-hāʾirīnが誰に向けられて執筆されたのか、という問いに戻る。Dalālat al-hāʾirīnはヨセフ・ベン・ユダに向けて書かれたものであることは明らかであるが、別の回答も存在する。氏の見解によると、聖書を読む際にメタファーやアレゴリーを理解することを未だ学んでいない若い読者も「迷える者」の対象とされる。さらに偉大な哲学者であるアリストテレスのような教養のある哲学者でさえ、時として「迷える者」となるのだ。そのうえ「迷える者」の道案内人としてのマイモニデス自身でさえも、非常に当惑した状態に陥ることを認めていた。
 プラトンやアリストテレスが、哲学することは「当惑」に始まり「当惑」に終わると述べたように、哲学者は「当惑」から逃れることはできない。哲学者とは継続的に「当惑」の状態にさらされることを意味し、絶えず「当惑」に立ち向かう者のことである。その意味でDalālat al-hāʾirīnは、哲学者の手引きといえるだろう。最後に氏は、Dalālat al-hāʾirīnにおける2つの意味を提示した。つまり、それは「迷える者」のために書かれたものであり、且つ「迷える者」によって書かれた手引きである。いいかえれば、Dalālat al-hāʾirīnは哲学者のために書かれたものであり、且つ哲学者によって書かれた手引きであり、さらに哲学に関する手引きなのである。
 つづいて、高木久夫氏(明治学院大学准教授)によるコメントがなされ、その後、参加者を交えての活発な議論が展開された。議論の内容はDalālat al-hāʾirīnにおける理性と啓示の相克の位置づけ、中世の文脈における聖典解釈や翻訳の問題など多岐にわたるものであった。  (同志社大学神学研究科博士後期課程大岩根安里)


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