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第8回ユダヤ学会議 カバラーとスーフィズム ー現代におけるユダヤ教とイスラームの秘儀的信仰と実践

研究プロジェクト

2014年度

第8回ユダヤ学会議 カバラーとスーフィズム ー現代におけるユダヤ教とイスラームの秘儀的信仰と実践

日時: 2015年02月28日(土)15:30~17:30
2015年03月01日(日)9:00~12:00, 15:30~17:30
場所: 同志社大学今出川キャンパス 神学館G31
発表者:
  • ボアズ フス(ベングリオン大学)
  • マーク セジュウィック(オーフス大学)
  • 山本 孟 (京都大学 日本学術振興会特別研究員)
  • 大澤 耕史 (東京大学 日本学術振興会特別研究員)
  • 神田 愛子 (同志社大学 神学研究科 博士後期課程)
  • 山本 伸一 (京都大学 日本学術振興会特別研究員)
コメンテーター:
  • ドロン・B・コヘン (同志社大学 国際教育インスティトュート 嘱託講師)
  • 森山 央昭 (同志社大学 神学部神学研究科 准教授)
要旨:
1. 山本孟
“Communications between the Gods and the Hittite King”
古代ヒッタイト王国では、王が、神の世界と王国の間の仲介者だった。神々が国を支配するために王を代理として選んだと考えられ、王はいかに神々に仕えたかによって評価された。王は自身を神の祭司と見做し、聖なる町の神殿での祭りで重要な役割を担った。
神々の祭司として王は王国を治め、神々のためにその領地に住む人々を導く責任を有した。王は神々の要求を文書によって仲介した。このような王の役割は、ヒッタイト語のišhiul という名詞の語用から推測される。山本氏は、この名詞の主要な意味が、神々の礼拝を命令する「神々の法」であったことを研究で明らかにした。王は人々に義務を明記したišhiul テクストを発布した。このテクストは、王が王国を運営するための神々との調停手段であり、このような神権政治が確立していたことが想定される。王たちは神々といかに連絡を取っていたのだろうか。名詞išhiul の使用から、神々の法を受け取る方法が2つの方法があったと考えられる。最初の方法は夢である。
太陽神への祈り(CTH374)の冒頭では、ヒッタイト王が彼の個人的な神へ嘆願を伝達してくれるよう、太陽神に祈願している。Muršili 2世の祈り(CTH378)では、国内に広がった疫病が王の父の行為に対する神の怒りによって引き起こされたものであることを知った王は、父の息子として何をする必要があるかを夢を通して語るように懇願した。
神の法を授かる二つ目の方法は神託であり、ヒッタイトでは、くじ占いや動物の内臓占いなどがあった。羊の肝臓を調べることにより、どの神が王の病気に責任があり、どのような祭儀を必要とするかの理解を試みた。
(CISMOR特別研究員 平岡光太郎)

2. 大澤耕史
“Interpretations of the Golden Calf Story in Exodus 32: Exploring Jewish-Christian Relationships in Late Antiquity"
出エジプト記32章に記されている金の子牛像事件が、ユダヤ教とキリスト教の双方にとって重要であることは疑いようがない。本報告でまず、両者による事件についての様々な解釈が紹介された。例えば、5世紀頃にパレスチナで編纂されたレビ記ラッバーに残された伝承によれば、イスラエルの民はまずフルに神を作るように求めたが断られたために彼を殺し、それを見たアロンが、民が祭司である自分を殺すという大罪を犯さないように子牛を作ったとのことである。この解釈では事件におけるアロンの責任が軽減されていると考えられる。キリスト教の解釈では一般的に、金の子牛像事件はユダヤ人の愚かさや貪欲さの表明であり、そのためにユダヤ人は神に見捨てられたとされている。
金の子牛像事件解釈についての先行研究の分析により、今後の研究では、分析対象を特定の時代と地域に限定する必要性が指摘された。それを踏まえて本報告では、タナイーム・アモライームの解釈と、アフラハトとエフライムに代表される4世紀までのシリア教父の解釈の比較が提案されたとともに、その具体例が示された。
(CISMOR特別研究員 平岡光太郎)

3.神田愛子
“Conditions for Attaining the True Knowledge of God: According to the Guide of the Perplexed III: 52-54”
 中世における最も偉大なユダヤ思想家の一人であるマイモニデスは、その著書『迷える者への手引き』の最後の三章で、神に関する真正な知識への到達条件について論じている。
 彼は人間の完成に関する四つの側面を検討し、最初の三つの所有、心身、倫理の完成では不十分であり、理性的徳の完成こそが、神的な事柄に関する正しい見解を獲得するために真に必要な条件であると主張する。マイモニデスは「ホフマ」(知恵)には四つの意味があり、それらは神の真実の把握、倫理的徳の獲得、実際的働きにおける技能の習得、策略と戦術の才であると説明する。法の知識と賢者の知恵は異なっており、律法と賢者の両方の見解を知った上で、必要とされる行動が明確にされねばならないと彼は論じる。一方、「知性」について、人間の完成を目指す者は、知性が常に神と人とを結びつけることを知るべきであるとする。この上からの光である知性を通して、神は人を見守り、人は神を理解する。つまり、律法の知識と賢者の知恵の助けを受け、人は上からの知性を通して神についての真正な知識に到達し得るのである。
 上記より、法の知識がまず必要とされることがわかるが、マイモニデスは法が教えることの一つは、律法に書かれた全ての行いの目的は神を畏れることであり、一つは神への愛であると述べる。法が規定した命令を行うことにより神を畏れ、法に教えられた神理解を通して神を愛するのであるが、これらは真の神知識に至るための準備段階である。
 彼はさらに「ヘセド」(慈愛)、「ツェダカ」(公正)、「ミシュパット」(裁き)の三つの語について説明する。ヘセドは過剰な善行、ツェダカは倫理的徳のための善行、ミシュパットは報酬あるいは罰であるが、それら全ては神の属性であり、神が人の内奥に望んだことでもある。彼はこう述べる。「真に誇るべき人間の完成は、その者の能力に応じて神の理解を得、創造の業と統治の内に現れた神の摂理が被造物に及ぶことを知る者の内にある。これを理解した後、その者は、神の業の学びを通して慈愛と公正と裁きを求めつつ生きるようになるのである。」
 (CISMOR特別研究員 平岡光太郎)

4. 山本伸一
「イスマーイール派とカバラーの世界周期論の比較研究」
イスマーイール派とカバラーがさまざまな共通の特徴を持っていることはよく知られている。たとえば、新プラトン主義的な流出論、グノーシス主義的な「原初の人間」、文字による創造論などである。それらの中でも、世界史が周期性を
持っているという世界周期論はもっとも興味深い共通点の一つである。これまでいくつかの比較研究がなされてきたが、双方に見られる類似性のごくわずかな部分を扱っているにすぎない。おもな理由は、イスマーイール派とカバラーを架橋する歴史的な証拠が極めて乏しいことにある。言い方を変えるならば、文献学的にも歴史学的も比較研究を行うほど価値のあるほどの資料がほとんど存在しないということである。したがって本発表の第一の目的は、双方の歴史的な関連性を探求することではなく、世界周期論に見られる論理構造を分析することである。7という聖なる数字に基づく世界の周期性、宗教法を歴史のパラダイムと関連させる思想、その法を相対化する反規範主義に類似性と固有性を見出す。さらにそうした論理構造が、のちに反規範主義的な性格の強い運動となることにまで議論を進める。イスマーイール派とカバラーの世界周期論は、それぞれニザール派とシャブタイ派のメシア運動のなかで現実的な意味を帯びるようになってくる。前者は11-12世紀にイラン北部で生まれたイスマーイール派の分派であり、後者は17-18世紀にオスマン帝国から各地のユダヤ人共同体に拡大したカバリストたちの終末思想である。そして、いずれも思い描いた地上の支配権を得ることができずに破綻するという点でよく似ている。その失敗は世界周期論を実現させようとして生じた必然的な結果である。本発表はニザール派とシャブタイ派の類似性に光を当てる初めての研究である。
(日本学術振興会特別研究員 山本伸一)



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