公開講演会

日本オリエント学会 共催

古代近東の契約・誓約・条約

日時: 2009年10月17日(土)14:00−16:00
場所: 同志社大学今出川キャンパス 至誠館2階 S21教室
講師: 渡辺和子(東洋英和女学院大学 教授)
要旨:
 「約束をする」とはどういうことか。「約束を守らせる」とはどのような行為なのか。本講演はこの問いかけから始まった。法律的な「契約」、宗教的な「誓約」、そして国家間の「条約」と、我々はいろいろな場面で多様な「約束」(契約)を交わす。講師の渡辺和子先生はまず『広辞苑』や『岩波哲学・思想事典』の「契約」の項を引き、社会的(法律的)契約と宗教的契約が同じ「約束」でありながら、別の概念として整理されていることを確認した。しかし、両者はまったく重ならないのか。
 「契約」を含め、人間の各行為に関するさまざまな概念は、古代ギリシア以来の2500年間のヨーロッパ史に基づいて整理されてきた。しかし渡辺先生が専門とする古代メソポタミアに目を向ければ、人類の歴史は5000年間に拡大する。しかも近代的な概念の基本的な枠組みがほぼ出来上がった19世紀後半から、古代メソポタミアとその周辺(古代近東)の基本史料である粘土板文書の発掘と解読が本格化したこともあって、その知見は我々の社会的・宗教的な概念理解にほとんど反映されていない。すでに出版された粘土板文書だけで十数万点あり、その倍ほどが今も博物館で公刊を待っており、さらに未発掘のものまで含めると、その全容と人類史理解へのインパクトは無限大となる。
 本講演の中心テーマはアッシリア帝国で紀元前672年に公布された「エサルハドン誓約文書」である。この粘土板文書は1955年にアッシリアのニムルドで発見され、1958年に、アッシリア王エサルハドンと周辺諸国との支配・服従を約束する「エサルハドン宗主権条約」として出版された。それは紀元前13世紀頃のヒッタイト帝国の「宗主権条約」と形式が似ていること、また聖書の契約形式や『申命記』の〈呪いの言葉〉との類似点があることが指摘された。そしてその類似は、アッシリアに服属したユダ王国もこの文書を受け取ったことに起因すると推測された。
 しかし渡辺先生の研究によれば、この文書は「宗主権条約」ではない。実際にはエサルハドンの死後、皇太子アッシュルバニパルに王位を問題なく継承させるように、皇太子の兄弟、王族、高官、そして周辺諸国の支配者たちに誓わせるための「誓約文書」であった。この誓約を受けとるのは王ではなく神々であり、その代表としてアッシリアの最高神アッシュルが調印した形になっている。ここで誓約を第一に義務づけられたのは、王位簒奪の可能性が最も高い“身内”であった。ただし文書中に登場する、他に例をみないほど“国際性”豊かな神々と呪いの言葉のバリエーションは、王位継承の定めを確実なものとするために、周辺世界の神々と呪いの言葉を王が必死になって集めさせたことを示している。覇権国でありながら周辺諸国に誓約を守らせるためには、自分たちの神々と呪いだけでは不十分と考えたのである。よって、もし「エサルハドン誓約文書」と聖書のあいだに何らかの影響があったのならば、そのベクトルはアッシリアからユダ王国の方へ向いていたのではなく、その逆であった。すなわちユダ王国とその周辺世界の呪いの伝承をアッシリアが取り入れた可能性が高い。
 以上のように、〈法的契約〉と思える王位継承の遵守に関する文書が、実際には神々への誓約という〈宗教的契約〉であること、そしてどんな時代と社会にあっても、人間の行為としての「約束」を社会的(法律的)契約と宗教的誓約に完全に二分してとらえることはできず、両者が重なり合う領域にこそ「約束」の本質が存在するのではないかと渡辺先生は結論された。 
 そのほか、楔形文字による粘土板文書の書かれ方・使われ方・残り方などの基礎知識に始まり、神アッシュルは「アッシュル」という名の土地が神格化して誕生した神であり、その土地と神の勢力拡大により、紀元前2千年紀前半には「都市アッシュル」(都市国家)、その後は「国アッシュル」(「アッシリア」は英訳のAssyriaによる)となって紀元前612年まで続いたこと、「誓い」は本質的に「自己呪詛」であること、粘土板文書の読解作業の困難さと楽しみなどを、実体験に基づく多くのエピソードとスライドを交えながら、とてもわかりやすく説明され、粘土板文書の世界へと聴衆をいざなわれた。

(CISMOR特別研究員:中谷直司)
※入場無料・事前申込不要 ※お問い合わせ 075-251-3972(同志社大学一神教学際研究センター)
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