若手研究会シンポジウム 第2部 研究会
聖書学と法学の観点から
日時: |
2010年05月15日(土)14:45−16:15 |
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場所: | 同志社大学 寧静館5階 会議室 |
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コメンテーター: |
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要旨: | |
「聖書学におけるブーバー」 聖書本文に繰り返し現れるヘブライ語の単語やその語根を鍵語(Leitwort)として、その語られる形(Style)に注目して物語の意味を読み解こうとするブーバーの聖書解釈は、聖書の文芸学的釈義(Literary Exegesis)の古典的な例として紹介されることが多い。 一方、文献の成立史という歴史的問題に関心を寄せた19世紀(特にWellhausen)以来の近代聖書学の主潮流の中では、例えばブーバーと同様に物語の様式や類型に注目しつつも生の座という社会的関心によって歴史的研究においても存在感をもったH.Gunkelやその門下生と比較すると、ブーバーは限定的な存在に見える。 ブーバーの解釈はあくまで聖書全体を一つの作品として見る共時的解釈であり、通時的解釈とは方法論的に区別されると考えられたからであろう。しかしながら、士師記を扱った著作『神の王国』に目を移すと、彼は共時的解釈のみならず、歴史的問題にも大胆に言及していることが分かる。 これは方法論的にまったくの逸脱というわけではないと、本発表では主張された。ブーバーは、Leitwortstyleの背後にその形を生み出すに至った歴史的共同体の記憶が存在していると考えていたのである。『神の王国』の中で、それは神政政治の記憶であった。ブーバーの記憶論の背景には聖書学以外の学問領域の蓄積があると思われる。例えば、仏の言語心理学者M.ジュセ(1925)。あるいは同時期、仏で活動していた社会学者M.アルヴァックス(1925)の記憶論への参照も有益であろう。伝承論との関連ではJ.グリムなどもいる。様式史的研究の生の座と記憶との類似点および相違点にも留意すべきである。それらを考慮しつつ、また実際の聖書にも即しつつ、記憶という観点からブーバーの聖書解釈の方法論的意義を、その有効性と限界両面から、捉えなおす試みが行われる。 同志社大学大学院 津田 一夫 「マルティン・ブーバーのTheokratie理解の特徴」 近代の世俗化の中で、西洋の文明圏にいた多くのユダヤ人は、ヘブライ語聖書(旧約聖書)の非聖典化、つまり聖典の古典化の過程を経ました。特にイスラエルでは、ヘブライ語聖書は国民の正当な古典として理解され、国会議員による聖書勉強会でヘブライ語聖書のリーダー像などが学ばれた状況が近年にありました。 現代ユダヤ思想において、宗教と政治の問題を考える際、ヘブライ語聖書にどのような政治モデルを見出すかは、単に聖書解釈の領域に留まりません。つまり、その政治モデルは、人々の政治思想理解に影響を与え、ひいては中東の安全保障にも関わってくる可能性があります。 マルティン・ブーバー(1878-1965)は、Königtum Gottes(1932)において、聖書注解を行いつつ、宗教と政治の問題を考えるうえで重要な視座を神権政治概念によって提示した人物で、彼はまた「バイ・ナショナリズム(二民族共存国家論)」の提唱をして、アラブ人・パレスティナ人との共存を目指しました。 ブーバーがKönigtum Gottesを第三版まで出版する過程で、数々の著名な聖書学者たちと、神権政治理解をめぐって意見交換を行いましたが、現代聖書学では、彼の主張は取り上げられることがきわめて少ない状況です。これに対しユダヤ思想の領域では、彼の神権政治理解は取り上げられ続けています。本発表では、ブーバーの神権政治理解の主要な点と現代ユダヤ思想におけるその受容を明らかにすることを目的としました。 同志社大学大学院 平岡 光太郎 |