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中世ユダヤ文化の創造力:キリスト教思想・イスラーム思想との関係

公開講演会

第7回ユダヤ学会議

中世ユダヤ文化の創造力:キリスト教思想・イスラーム思想との関係

日時: 2013年06月29日(土)13:00~15:00
2013年06月30日(日)13:30~15:30
場所: 同志社大学今出川キャンパス 神学館3階礼拝堂
(京都市営地下鉄烏丸線「今出川駅」下車3番出口徒歩3分)
講師: 【6/29】マルク・サパーステイン教授、ジョージ・ワシントン大学(DC)
【6/30】ゼエヴ・ハーヴィー教授、ヘブライ大学
要旨:
■Medieval Jewish Cultural Creativity in Response to Persecution
(迫害への応答としての中世ユダヤ文化)
マルク・サパーステイン教授、ジョージ・ワシントン大学(DC)

 「中世キリスト教ヨーロッパにおけるユダヤ人」という言葉から連想される語が「不寛容」、「差別」、「圧制」であるように、ユダヤ人は暴力や追放という迫害を受けていた。改革派ユダヤ教のラビで歴史学を専門とするSaperstein氏は、11世紀の第一回十字軍によるラインラントのユダヤ人共同体の破壊、1391年のイベリア半島での反ユダヤ人暴動、1492年のスペインからのユダヤ人追放、1648年のポーランドでのコサック指導者ボフダン・フメルニツキーによるユダヤ人虐殺の4つの事件を取り上げ、それらに関する文献を(1)迫害を記録した年代記、(2)ユダヤ人社会に対する訓戒と叱責の文書という2つの分野に分けて、中世ユダヤ文化について講演を行なった。
(1)年代記
 中世ユダヤ人は日常生活の記録には関心を持たず、知的活動と文化的創造性は聖書、タルムード、ミドラシュ等の分野で行なわれていた。しかし迫害に関しては後世への記録として年代記が作成された。年代記には破壊の様子が詳細に記録され、殉教と自らが家族を手に掛ける状況が描かれ、またユダヤ人を救った司祭などの記録も残されている。年代記作者は迫害は聖書に既に預言されていたと見て、否定的な聖句が成就したように、肯定的な復興やメシアの贖いも成就すると考えたのである。強い信仰のゆえにアブラハムがイサクを奉献するよう神から試されたように、試練はその世代の罪深さではなく、信仰深さと勇猛さによって与えられたと主張しており、そこには迫害の原因を探究する試みはなかった。
(2)ユダヤ人社会への訓戒と叱責の文書
 他方で、迫害に対して出来事を記録することよりも、むしろ因果関係に関心をもつ文書もあった。それらは、神がこの世のすべての出来事を支配しているという神学的信条ゆえに、迫害も神の意志の表現であるとし、神の罰を引き起こすユダヤ人社会の欠陥を分析し、経済的社会的な原因をも探求した訓戒と叱責の文書である。これらの作者は、迫害は神との契約義務を果たさないユダヤ人に対する神の罰と見なした。たとえばユダヤ人は信仰と謙虚さを欠き、安息日を冒瀆し、外面的な儀式に満足して内面をおざなりにしている。ラビはタルムードの「瑣末な細部」に拘り、不毛な論議に没頭し、ギリシャ哲学に影響された説教や聖書注解をしている。支配者の寵愛を受けた宮廷ユダヤ人は、学問と勤勉さを忘れて虚栄に耽り、重荷は同胞に転嫁していると非難する。ユダヤ人は離散の民族の立場を忘れてキリスト教の王侯貴族のように振る舞い、高利によって土地と利益を手中にして大衆の怒りを買ったと語る。ユダヤ人の言動が迫害の原因となり、神は罰を課すための道具として異邦人を用いていると主張している。
 これらの文書は地上のあらゆる出来事は神に支配されているという伝統的信仰態度、「信仰を保ち、伝統に戻れ、神の怒りは一時のものであり、悔い改めは神の愛を回復させる」という建設的なメッセージを与えている。そして中世のユダヤ人は信仰篤い人々だけでなく今日のユダヤ人と同様に矛盾と葛藤に満ちた社会に生きていたことを教えてくれる、と述べ、講演を締めくくった。その後会場から熱心な質疑が出され丁寧な応答がなされた。  (同志社大学神学研究科博士後期課程 飯田健一郎)



■Maimonides’ Monotheism: Between the Bible and Aristotle
(マイモニデスの一神教―聖書とアリストテレスの間で)
ゼエヴ・ハーヴィー教授、ヘブライ大学

 Zev Harvey氏による講演は、マイモニデスの4つの著作、Kitāb al-Sirāj(Perush ha-Mishnayot, ミシュナー註解)、Kitāb al-Farāʾid(Sefer ha-Mitsvot, 戒律の書)、Mishneh Torah(ミシュネー・トーラー)、Dalālat al-hāʾirīn(Moreh Nevukhim, 迷える者の手引き)を通して、彼の一神教の理念の展開を考察するものであった。
 モーゼス・マイモニデスは1138年にイスラーム統治下のコルドバで生まれ、1204年にフスタート(Old Cairo)で亡くなった。一神教という問いは、マイモニデスの生涯においてユダヤ人としてだけでなく哲学者としても重要な問いであった。
 まず、一神教に関する彼の最初の見解は、1168年にユダヤ・アラビア語で記されたKitāb al-Sirājの中に見出される。「損害篇・サンへドリン巻序」第10章(天命章)13原理(信仰箇条)では、神の存在が他に類似するものがないという意味で「一」であることが述べられている。Kitāb al-Sirājでの、マイモニデスの神の唯一性とは以下の2つのアプローチによって説明される。(1)神の非物体性(incorporeality)を論じる際はアリストテレスに基づくものであり、(2)神の無比性(incomparability)を論じる際は、聖書的側面を強調している。このような哲学的説明と聖書的説明の二本柱によって神の唯一性を説明する試みが、マイモニデスの特徴である。
 次にユダヤ・アラビア語で1169年頃にフスタートで執筆されたKitāb al-Farāʾidの中には、2番目の戒律として、神が唯一であるという認識について言及されている。しかし一神教の定義はされておらず、神の非物体性や無比性に関しても言及されていない。
 3つ目の著作、1178年にヘブライ語で記されたMishneh Torahは14巻からなるユダヤの法典であり、フスタートで執筆された。この著に収められた「知識の書」の「トーラーの根本原理」(1:7-8)の中で、マイモニデスは申命記(6:4, 4:15)、イザヤ書(40:25)などを引き合いに出し、神の唯一性について論じる。アリストテレスの「一」に関する様々な説明(例:物理学的な説明)に関しても考察しているが、マイモニデスは神の非物体性に関してアリストテレスに言及するだけでなく、聖書(申命記4:15、4:39)からも神の非物体性の証明を試みている。一方、聖書が強調する神の無比性に関してはイザヤ書(40:25)を引用している。Mishneh Torahに見られる神の唯一性は、ギリシア的要素とヘブライ的要素が融合していることがわかる。マイモニデスは神の唯一性が非物体的であると同時に無比性であるという証明を試みた。
 哲学的著作であるDalālat al-hāʾirīnはユダヤ・アラビア語で執筆され、1190年頃にフスタートで完成された。この書では神の唯一性はアリストテレス的に述べられている箇所(Ⅱ, 1-2)がある一方、別の箇所(Ⅱ, 4)では、神の非物体性というアリストテレス的な概念よりも神の無比性という聖書的な概念が優先されている。最終的にマイモニデスがどのような立場であるのかは不明である。またDalālat al-hāʾirīnでは「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である」(申命記6:4)は一度しか引用されていない。その引用箇所とは、Ⅲ, 45の神と天使の関係を論じる一節である。Dalālat al-hāʾirīnにおけるマイモニデスの議論からわかることは、(1)神は唯一であり多ではないこと、天使は非物体性であるが多数であること(申命記6:4)、(2)神は唯一であり比べられないこと(イザヤ書40:25、エレミヤ書10:6)である。仮に(1)はアリストテレス的であり、(2)はヘブライ的であるといえるならば、マイモニデスは最も純粋な一神教はモーセやアリストテレス(非物体性)の内に見出されるものではなく、むしろイザヤやエレミヤ(無比性)の中に見出されると主張するかもしれない。
 アリストテレスのギリシア的一神教とイザヤのヘブライ的一神教との間における道徳あるいは宗教の違いとは何か。もしこの問いに答えられるならば、マイモニデスが一神教を緻密に考察した際、アリストテレスだけでも、イザヤだけでもなく、すなわち哲学者と預言者の両方にその基礎を求めた理由がわかるだろう。    (同志社大学神学研究科博士後期課程 大岩根安里)
※英語講演・逐次通訳あり
※入場無料・事前申込不要

【主催】同志社大学一神教学際研究センター
同志社大学神学部・神学研究科
6月29日(土)
6月30日(日)

6/29 公開講演会映像 42分

6/30 公開講演会映像 37分