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法・道徳・宗教を考える ――エジプトの近代化を振り返って

公開講演会

法・道徳・宗教を考える ――エジプトの近代化を振り返って

日時: 2005年03月23日(水)2時~4時30分
場所: 同志社大学 今出川キャンパス 神学館 礼拝堂
講師: タラール・アサド(ニューヨーク市立大学教授)
要旨:
アサド氏の発表は、近代における実定法の適用を通して確立したとされる、個人の倫理と法の領域の区別に疑問を提起するものであった。
氏は、Tariq al-BishriとAhmad Safwatという近代エジプトの2人のイスラーム主義者によるシャリーア改正の試みを挙げ、エジプトにおいて起こった法と倫理の改革過程を分析した。氏が両者の思想に注目する点は4つ。

1) 法の妥当性は、社会の中から起因する
2) 契約をめぐる対等な個人
3) 法源学の再解釈
4) 法と倫理の関係
1)についてal-Bishriは、法と倫理が完全に一致することが不可能であると認知していたが、エジプト近代社会において成文法と人々の道徳律との間に不一致があることに懸念を抱き、このような乖離は国家にとって危険であるとした。その背景には、法律の権威は、それに従うことが道徳的(宗教的)義務という人々の認識なしには存在しないものとの理解があった。
2)について特に結婚をめぐる対等な個人という思想は、既に当時のエジプトの中流階級に広まっていただけでなく、Safwatのような知識人たちが進歩的な社会に必要と考えていた。
3)についてal-Bishriの改革思想に影響を受けていたSafwatも、国家と社会の近代化に沿って、シャリーアを刷新し適用していく見解を持っていた。Safwatは、法源学を再解釈し、法源をクルアーンに一本化できることを主張した。またクルアーンにおける行為規定カテゴリーをハラーム(禁止)、ワージブ(義務)、ジャーイズ(許された行為)の3つとした。この方法によって、ジャーイズにあてはまる(つまり禁止とも義務ともされない)行為について、クルアーン中で明確にジャーイズであるという言及のある行為とない行為が同格であると解釈され、Safwatに宗教的・道徳的規定を侵害することなく、ジャーイズの範囲の中で国民の不利益になる行為を制限できるという思考を開いた。
4)についてSafwatにとって、道徳律が内的な良心に基づくのは自明のことであった。彼によれば、規則に違反した者を罰するのは実定法の働きであり、宗教的な罪は来世で罰せられるという聖法に属するが、宗教的道徳に反した者が現世でも罰を受けるのは、我々が法と倫理(政治的権威と宗教的権威)が混在する社会に生きているからである。Safwatは、道徳概念と法概念の相違を、「社会的規則」の観点から定義した。この「規則」の強制力は罰則によって保持されるが、法の場合は公的な権力、道徳的なものは個人的信念に基づいている。従って、「道徳」は違反が国家による制裁対象とならないすべての義務のことを意味するとしている。
アサド氏によれば、Safwatはここで道徳の意味そのものを変化させている。道徳的規則との関係性で見れば、Safwatを始めとする改革者たちは、道徳的規則をそのまま徳とし重視することから、その固有の特徴を明らかにし、それが命ずる「義務」と個人の関係を重視するようになっていったのである。

また同氏は、実定法への移行において、それまで唯一法判断の根拠とされていた倫理に関する個人(証人や裁判官など法判断に携わる個人)の知識というものの権威が薄れると共に、この移行期において、預言者に付されていた倫理的模範としての役割が低下したことも指摘する。このことは、倫理はもはや継続的な徳の育成に関連するのではなく、個人の良心に備わった自由意志によるということである。

だがアサド氏は、近代の法、宗教、道徳の変化は、社会的な選択に対する制限の継続的減少、そして社会的関係を構築・経験するための新しい方法、つまり道徳的主体になる方法の登場も示唆しているのであると言う。そのような変化はまた、道徳的葛藤も生じさせる。法と社会的知識の実定化に伴う「道徳の私化」は、フランスの公立学校におけるヴェールの着用問題のような矛盾ももたらした。氏は近代国家法は道徳に干渉しないという見解は疑わしいという。

アサド氏は、近代エジプトにおける法改訂のプロセスの中で、法と倫理が分けられた過程を分析し、その過程においては道徳だけでなく、道徳概念そのものの変化をも表していたと主張した。これを踏まえ氏はまた、(シャリーアを含む)法の実定法化は、倫理と社会認識の実定化を含むより大きな流れの一部としてとらえる必要性を指摘した。

(COE研究指導員 中村明日香)
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