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7世紀のイスラーム到来期におけるコプト教会の動向―現代の視点より

公開講演会

第1プロジェクト 公開講演会

7世紀のイスラーム到来期におけるコプト教会の動向―現代の視点より

日時: 2010年03月13日(土)13:30−15:30
場所: 同志社大学 今出川キャンパス 神学館礼拝堂
講師: 村山 盛忠(日本キリスト教団牧師)
要旨:
 講演者である村山盛忠氏は1964-68年までの間、日本基督教団よりエジプトへ派遣され、同地のコプト福音教会で宣教師として奉職していた。講演では主として、イスラーム到来期以前のエジプトのコプト教会を取り巻く状況が述べられた。
 よく知られているように、キリスト教は313年に皇帝勅令によりローマ帝国において公認された。ただし、その勅令はキリスト教を公認すると同時に、ローマ皇帝(東ローマ帝国)にとっては、帝国領内のキリスト教会の統一が重要な政治課題となった。451年に行なわれたカルケドン公会議は、教義を議論する場ではなく、予め提出されていた事項を皇帝が承認、採択する形式に乗っ取ったものであった。そこでは、皇帝および首都コンスタンティノポリス総主教がイニシアティブを執り、エジプトを代表したアレクサンドリア総主教ディアスコロスは異端との判断を下されるなど、教義の問題に親皇帝派か反皇帝派かといった政治的立場が色濃く反映される結果となった。この結果エジプトの教会には、皇帝の承認する総主教(後のギリシャ正教会)と、エジプト民衆が選出する総主教(コプト教会)の、二人の総主教が出現することになった。イスラーム到来期までの間、反皇帝派/反カルケドン派となってしまったエジプトのコプト教会は、ローマのキリスト教世界の中で守勢、劣勢に立たされることになった。
 とはいえ、皇帝派と反皇帝派の争いはその後も続き、マウリキウス皇帝時代や、コンスタンティノポリスでクーデタを起こした次のフォカス皇帝時代に至るまで以前としてローマ内の政治状況は不安定であった。エジプトのコプト教会はその状況の中で何とかアレクサンドリアの主教座を護ってきたが、619-629年の間はサーサーン朝ペルシアの統治下に入り、その間コプト教会は保護され、自由な生活を享受することができた。ただしその後はローマのヘラクリオス皇帝がサーサーン朝を撤退させ、エジプトがローマに戻ってからコプト教会はディオクレティアヌス皇帝時代以来と言われる凄惨な迫害を受けることになる。ローマ皇帝の権力を背景にした皇帝派総主教は、軍事、財政、行政等の広範にわたるエジプト全土を支配する総督と同等の地位を与えられ、コプト住民を迫害した。当時のコプト総主教ベンジャミンは、10年間砂漠に逃避せざるを得なかった。これこそがイスラーム到来期以前のコプト教会の状況であった。
 その後、コプト教会はエジプトにおいてイスラーム教徒との長い共存を果たしてきたわけだが、それは彼らが今日叫ばれるような宗教間の「対話」以前の状態にあることを意味している。コメンテータの津田一夫氏(大阪九條教会牧師)は、シリアのキリスト教会を訪問した際に同様の印象を同地の教会を取り巻く環境に覚えた経験を述べ、聖書世界あるいはその後の初期キリスト教会が、国政や統治者の変化に左右されない連綿と続くアイデンティティの下に集まり、それが今日のシリア、エジプトに見られるのだとコメントした。

(CISMORリサーチアシスタント 高尾 賢一郎)
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