公開講演会
環境問題と良心──未来世代のために今考えなければならないこと
日時: |
2015年07月11日(土)13:00-15:00 |
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場所: |
同志社大学今出川キャンパス良心館107教室 (京都市営地下鉄烏丸線「今出川駅」下車3番出口徒歩3分) |
講師: |
小原 克博(同志社大学神学部・神学研究科教授/良心学研究センター長) 「環境倫理とキリスト教──良心の個別性と普遍性を考える」 和田 喜彦(同志社大学経済学部教授) 「『科学技術』開発を多面的視点から監視せよ」 |
要旨: | |
小原氏によればキリスト教が環境問題に取り組む契機の一つに、当時の生態学的危機の原因がキリスト教の人間観・世界観にあると指摘したリン・ホワイト・ジュニアによる1967年の論文がある。それは西方キリスト教が人間中心的で、人と自然の二元論を有し、こうした自然観が改められなければ今日の環境問題は解消しないとし、別のキリスト教的見解として聖フランチェスコの精神を提案する。奇しくもその名を継ぐ現教皇フランシスコの回勅『ラウダート・シ』(2015年6月)では、環境問題に対して責任ある良心をもって取り組む必要性が指摘され、エコロジカルな回心が求められる。 良心と和訳されるconscienceの語源的な意味は「共に知る」である。共なるのは自己の内面、他者、神であり、ゆえに良心は個別的なだけでなく、普遍的な、コスモロジカルなものとなる。聖書の「隣人を自分のように愛しなさい」は実際には普遍的に実現されておらず、様々な理由をつけ隣人の範囲が限定される。「共に知る」対象も同様で、動物や自然は長らくその対象の外部とされてきた。 環境問題は個々の内なる良心が繋がり広がる普遍的な面を獲得しなければ対応不可能であり、エコロジカルな良心を考える必要がある。空間的に見ればコスモロジカルな良心、時間的には世代間の不公平を抑制する良心の視点が必要であり、過剰に人間中心主義、現代世代中心主義でない環境的良心を探究すべきであると述べた。 和田喜彦氏はまず公害・環境問題を、産業活動の過程で発生する有害物質を地域社会に排出させることで地域住民の生活、健康、自然環境に悪影響を与える現象と定義し、中でも戦争が最も深刻だとする。足尾銅山鉱毒・煙害事件に生涯をかけ立ち向かった田中正造は、非信徒だったがキリスト教から大きな影響を受けたとみられる。また彼は非暴力不服従運動の先駆者でもある。田中の訴えを継承した弟子達が全国で活躍し、彼の良心は伝播した。水俣病では1956年の公式発見の3年後に原因物質が特定されたが、政府は対策を講じなかった。これは未必の故意であり、水俣病は政府が起こした事件と言える。それに有名大学の教員も加担した。約20万人が健康被害を受けたとみられるが、認定者数はその100分の1である。今回の福島の事故後、政府は福島では年間20mSvの被爆は問題ないとし(通常1mSv)、爆発の原因や性質も詳細に判明していない中で恣意的な基準で再稼働に突入している。 公害事件には共通のパターンがあり、まず小動物、次に子供など弱いものから影響が現れる。被害が認定されてもその範囲の限定が画策される。コスト・ベネフィット論が導入され、本来比較できないものが比較される。被害は一様ではなく弱者に集中、または未来世代に押し付けられる。そして加害者には支援する研究者等がおり、責任がとられない。 新たな科学技術が発明されるとメリットだけが強調され、研究の自由のもと野放図に行われるが厳格な審査が必要であり、官僚や政治家には憲法の遵守を求めるべきであると述べた。 コメントとして和田元氏は、環境問題や原子力の誤用の根本に自己正当化があるとする。各々がそれぞれの立場で行動し統率されていないために最終的に矛盾が生じる。科学者はしばしば研究に没頭し、その成果が悪用される可能性まで思い至らないが、自分が全体として何をしているのかに注意すべきである。科学者、国、産業界が各自の立場を追求し、気付かぬ内に害が生じる時点までが公害であり、その後は刑事事件である。良心を持って公害や環境問題 を考えられる健全な社会を作っていくべきであると述べた。 (CISMOR特別研究員 朝香知己) |
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※入場無料・事前申込不要 【主催】 同志社大学 良心学研究センター 同志社大学一神教学際研究センター 【共催】 同志社大学神学部・神学研究科 |
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20150711プログラム 20150711ポスター |