21世紀COEプログラムによる活動記録

2006年度 第3回研究会

  • 061021a
  • 061021b
日時: 2006年10月21日(土) 13:00-17:00
場所: 同志社大学 室町キャンパス 寒梅館6階大会議室
タイトル: スピノザ:西欧思想史に見る異性体――その神観と倫理・政治思想――
講師: 河井徳治(大阪産業大学名誉教授)
タイトル: Machiavelli, Spinoza and Leo Strauss――Philosophy and Religion
講師: 飯島昇蔵(早稲田大学政治経済学術院教授)
要旨:
  河井氏はまず、スピノザが西欧近代において思想的伝統に組み入れられなかった思想上の異性体であった述べる。異性体とは、分子式は同じであるのに化学構造が異なった性質を示す化合物である。河井氏はこの異体性という言葉をスピノザの哲学に比喩的に転用する。つまり、スピノザもデカルトやホッブズと同様に、同時代の人間観や世界観を語る哲学の諸概念を用いて自らの哲学を語っているにもかかわらず、実は当時の西欧の哲学者たちとは根本的に異質の哲学を語ろうとした哲学者であったというのである。 
  それは神観において現れる。スピノザはデカルトと同様に、神が万物の起成因であり、これを実体という概念を用いて語る。しかし、その神という実体の属性の一つに、精神の属性である思惟と並んで、物体の空間的な広がりを意味する延長の本性を帰属させる。スピノザにとって神が万物の起成因であるならば、神は思惟の始源であるとともに延長の始源であった。 
  また西欧思想の伝統における生命活動観においても、スピノザの異性体的な特質は現れている。元来西欧思想の伝統として、神を形相の形相として示すことから、質料に対する形相の優位、肉体(身体)に対する魂(精神)の優位が説かれてきた。しかしスピノザは精神と身体の統一に生命活動を見ている。このような考え方は、神に延長の本性を帰属させることによって生まれるものであり、西欧のキリスト教的神観とは一線を画している。 
  おわりに河井氏は、スピノザと宮沢賢治の親近性と異性体の問題点を指摘して発表を締めくくった。
(CISMORリサーチアシスタント・神学研究科博士後期課程 森山 徹)
  ここのところネオコンの影響で、その思想的源泉の一つと言われるレオ・シュトラウスに注目が集まるようになった。では、シュトラウスとは何者かというと、実はその点から解釈が分かれている。一般的には、シュトラウスは哲学者であるとは見なされていない。シュトラウス自身、自分は政治哲学を研究する学者の一人にすぎないと言っている。しかし近年、シュトラウスは哲学者であるという解釈も出てきており、さらには、宗教者であるという解釈もある。はたしてシュトラウスは哲学者なのか、宗教者なのか。
  シュトラウスは、近代の政治哲学がどこで始まったのかということを非常に問題視した。最初はホッブズからだと考えたが、のちにマキャベリからだったと修正している。そして、そのことを教えてくれたのはスピノザだったと言う。
  シュトラウスは、スピノザを批判しているところもあるが、両者には重なる部分もある。シュトラウスが何者であるかということは、俄かに答えの出る問題ではないが、その手がかりは、マキャベリやスピノザとの関係でシュトラウスを考察することにあるといえよう。
(CISMOR奨励研究員・京都大学人間・環境学研究科博士後期課程 藤本龍児)

『2006年度 研究成果報告書』p.53-83より抜粋