21世紀COEプログラムによる活動記録

2004年度 第10回研究会

日時: 2004年12月22日
場所: 同志社大学 今出川キャンパス 扶桑館
タイトル: イラン保守派の政治思想
講師: 富田 健次 (同志社大学大学院神学研究科)
要旨:

  富田氏は、محمد جواد نوروزی، نظام سیاسی اسلام، تهران، 2002 (ムハンマド・ジャヴァードノウルウズィー『イスラーム政治制度』)に関して発題した。同書は、イスラーム政治の統治観、統治体制、統治形態などについて論じている。富田氏によるノウルウズィーの論点は以下の6つにまとめられる:

1)    統治観について
統治は必要。イスラームは統治の普遍的な総論を示しており、時間的に制限ある統治形態を明言できるのはヴァリーイェ・アムルである。統治権は本来神にあり、神から許しを得ない限り、何人も人を統治する権利を持たないからである。神が、預言者やイマーム、イマームの代理に人民の統治権を委ねるならば、これらの人々は聖法を社会に成立させる権利を持つ。ヴァリーイェ・アムルは見識ある者たちにも諮りながら、統治構造を提示する。人々はそれに従って行動することが義務である。

2)    三権分立とヴァリーイェ・ファキーフについて
権力濫用を防止するための西欧民主主義の三権分立制度は、問題を完全に解決するものではない。防止に必要なのは敬虔さと道徳であり、イスラームにおいて権力の分立は相互協調のためにある。
権力相互の内紛を阻止するのは、ヴァリーイェ・ファキーフである。ヴァリーイェ・ファキーフは、イマームの代理としての適性を持つ。
立法府は、指導者を専門の立場から諮問するためにあり、かれらの進言(法案)に指導者が承認を行なうという過程を経て法規定が成立する。

3)    人民の役割
イスラームでは人民の意見は統治の正当性を与えない。統治権は神のものである。

4)    イスラームと民主主義
イスラームは立法における民主主義を受け入れない。イスラームでは、神もしくは神の赦しを得たものが法を作る。
行政における民主主義は、イスラームの諸規定の条件下で受け入れられる。人民は、執行者と立法者を定めることで行政に参加する。

5)    民主主義の評価
西欧近代に起こったのは「世俗民主主義」であり、民主主義に世俗化が伴った現象である。そこでは宗教と政治は区別され、宗教は社会運営にたずさわらない。また、そこには以下のような問題がある。
①多数決原理の原則(少数派が多数派に従うことの正当性は何か、決定に理性が認める基準は関与しないか)。
②違反者に対する処罰の権利(人が人に損害を与える権利をどこから得ているのか、そのような権利譲渡が許されるのか)。
③選挙制度(選挙人は候補者に対して無知なことが多く、その場合選挙に関する広告や現世的利益のために投票する)。
④代議人の罷免(選挙人は代議人を罷免することが困難)。
⑤行政、立法の正当性の所在(行政者、立法者の正当性は、人民の要求に由来するというのが民主主義の思想なら、イスラームの神概念と相違する。万物の創造者である神は、被創造物全ての所有者でありそれらに対し統治権を持つ。神が行政、立法に関して人民に権利を与えている場合・領域のみ、それが許されている)。

6)    イスラーム統治の形態
特定の統治形態はない。社会は時間と共に変化し、これを統治すべく形態も変化するからである。これに従って、立法は神に属すが、一時的な法令は神から許可された者が制定することが前提となる。また、法の施行と司法において神は間接的に関与する。
単に宗教的統治と言った場合の概念は以下3つが挙げられる。
① 重要な事柄の全てが宗教に基づいている統治(法は宗教令に基づき、施行者も神またはイマームの命令によっている)。
② 宗教令が守護されている統治(法が信仰に基づいているが、全ての法が聖法に依拠しているわけではない)。
③ 信仰者たちの統治(その社会の市民が信仰を持っている者たちであるということ)。
①の統治がイスラーム的な意味の宗教的統治の理想であるが、その成立が不可能な場合は、緊急の特例として②の統治も認められる。ヴェラーヤテ・ファキーフは、①に数えることができる

 

(COE研究指導員 中村明日香)

 

『2004年度 研究成果報告書』p520-527より抜粋