21世紀COEプログラムによる活動記録

2004年度 第5回研究会

日時: 2004年7月20日
場所: 同志社大学 今出川キャンパス 扶桑館
タイトル: モフセン・キャディーヴァル「法学者と政治」 講読
要旨:

  2004 年7月2日同志社大学CISMOR会議室において、7月の「イラン・イスラーム体制における西欧理解」研究会が行われた。この日の発表者は松永泰行氏で、前半部は「イラン国家選挙結果からみたイラン・イスラーム体制の現状と将来」という発表題で主にイラン内政について、後半部は「イラン改革派敗退とブッシュ政権の大罪」とし、イラン内政に大きな影響をおよぼすアメリカの対中東外交について発題していただいた。
  前半の発表において松永氏は今回の選挙結果について触れ、保守派が大勝利を収め、改革派が敗退したのは1つの事実であるが、より注目すべきはそのプロセスの方にあると述べた。松永氏によれば、このプロセス分析において、2つの点が浮かびあがってくるという。第1に、保守派は勝利しているが実質の獲得票数は多くない。また、資格審査で残った改革派からも他の改革派系別組織の候補者からも当選者がごく少数しか出ていないという事実から、有権者は「保守派の勝利を黙認していた」ことになり、これは「懲罰的投票行動」であると分析する。また、第2に保守派の獲得票の少なさと、特に都市部における投票率の低さから、保守派は結果的には国会で大半の議席を占めることは可能でも、社会をコントロールする力はないという推測ができるという。これらのこととイラン国民のプラグマティックなパーソナリティを考え合わせると、今回の選挙について人々は支持を改革派から保守派に移行させたとは言い難く、保守派がどこまで経済を立て直せるか、ということを考え静観しているのだという。
  後半部において松永氏は、今回の選挙およびイラン内政全般に深刻な影響を及ぼしているアメリカとブッシュ政権の対イラン政策における問題点をあげた。第1は、アメリカが占領者ではなく「解放者として」中東政策を実施していくと主張していることである。同氏によれば、これは中東地域における西欧の植民地支配の際にも用いられた言説であって、このことを考慮すれば、仮に大義名分は必要だとしても中東の人々を刺激しないような用語は他に可能なはずとする。第2には、アメリカの中東民主化構想は、当該中東諸国のニーズに基づくものでなく、あくまでもアメリカ自らの安全保障上の利害が優先することである。アメリカは以前からイランの民主化の必要性を主張して、イスラーム共和体制を非難し続けた。革命から20年が経過し、ある程度の民主化を進めようとしたハータミー大統領に対しては、クリントン政権では歩みよりを見せ、ブッシュ政権では「切り捨てる」という態度に出た。2回の第3回に引き続きモフセン・キャディーヴァル師のフルペーパー(原文ペルシア語)の講読会を行なった。この日は、以前の講読会の中村の訳の校正を行っていった。

イスラームは大きくスンナ派とシーア派に別れる。このうちの少数派である
  シーア派では、預言者ムハンマドが最後のメッカ巡礼を行った帰路、ガディール・フンムの泉で休憩し、ここでムハンマドは自分の後継者に彼のいとこで娘婿のアリー(スンナ派のいわゆる第四代正統カリフ)を神の命令により指名したと見なす。もっとも後継者といっても、ムハンマドが最後の預言者であるとされているので、宗教共同体(ウンマ)の指導者としての後継者である。したがってスンナ派が正統カリフと見なす第一代カリフのアブー・バクルから第二代ウマル、第三代ウスマーンを経て第四代カリフ・アリーに至る4人のうちの、アリーに先行する3人のカリフはアリーの正当な地位を奪った簒奪者であるとシーア派は説く。この指導者としての地位はアリーの後、彼の子孫に前任者の指名を介して伝わり、第十二代目まで続いたとし、彼らをイマームと12イマーム・シーア派は呼ぶ。もっとも、イマームすなわち指導者と呼んでも、第四代カリフとしてのイマーム・アリーを除けば、ウマイヤ朝やアッバース朝の支配下で、実際の統治を担ったイマームはいない。
  第十二代イマームは幼少の時に姿を隠し(874年小お隠れ)、しばらくは特定の個人をその代理に置いていたが、この特定代理も第四代で途絶えた(941年大お隠れ)とされる。
  この大お隠れの後、ウラマー(イスラーム知識人たち)全般がお隠れイマームの代理であるとする見方が生じた。当初はイマームが持つとされる権限の一部を主張したに過ぎなかったが、漸次拡大解釈される傾向を持ち、19世紀のカージャール朝期には、政治面の代理は君主が担い、宗教面はウラマーが担うとする見方が一般的となった。これからさらに歩を進めて、単に宗教面のみならず政治面も含めてウラマー、その中でもイスラーム法学者たちがイマームの代理であり、指導者の地位に立つと論じたのがホメイニー(R.M.Khomeini)のヴェラーヤテ・ファギーフ(Velayat-e Faqih イスラーム統治)論である。
ホメイニーがこのヴェラーヤテ・ファギーフ論を説いたのは1970年であったが、それから9年後のイラン革命(1979年)で、国王が追放され、代わってホメイニーが最高指導者となるとともに、ヴェラーヤテ・ファギーフ論が憲法に織り込まれて、イスラーム法学者による統治体制が成立した。
イラン革命当時、世界の歴史は西洋の歴史展開を基準に測り、革命や新たな国家樹立は西欧の政治理念に立脚することを当然視する風潮のなかで、非西欧的理念であるイスラームに立脚したイラン革命とその政治理念は当時の人々の常識を覆し、当惑させるものであった。事実、西欧が世界大に拡大した近代以来、非西欧諸国の国家や社会形成の理念は西欧の政治思想や価値観に基づくのが、たとえそれが自由主義であるにしろ、あるいは社会主義であるにしろ、世界的通念となっていた。 イランにおいても、イラン革命まではパフラヴィー王朝の君主制の下で、とくに1953年(アメリカが関与したモサッデク政変)以降はアメリカの守護下で、近代化すなわち西欧化に邁進していた。非西欧諸国にとって、目標とすべき国家や社会の形成は近代化であり、それはとりもなおさず西欧化である、とするこの世界的通念に挑み、西欧に替えてイスラームの理念を掲げたのがイラン革命(1979年)であった。この点において、この革命は画期的であったと言える。しかし、その画期性ゆえにその存立は内外からの厳しい試練に立たされている。
ホメイニーは1989年に死去し、ハーメネイが最高指導者の地位を継いだが、それから8年後の1997年、行政府の長である大統領に言論の自由を説くハータミーが選出された。これを機に、ヴェラーヤテ・ファギーフ体制に対する批判の声が吹き出した。
ここに紹介する論は、そうした批判の急先鋒に立つイスラーム法学者キャディーヴァルが2004年早春、同志社大学神学館にて発表したものである。その趣旨は、イスラーム法学者が社会を統治する必要はないし、また、逆にそれは誤りであるとするものである。
キャディーヴァル師(Mohsen Kadivar)は、1958年シーラーズ生まれ、シーラーズ大学電気工学部入学するが中途退学し、その後イスラーム学を学ぶ。1993年にはコム大学で神学・イスラーム学修士号取得、その後イスラーム法学のイジュティハード資格を取得した。その後はタルビヤト・モダリッス大学(テヘラン)博士号を受け、現在は同大学哲学科助教授である。
  キャディーヴァル師はまた、アーヤトッラー・モンタゼリー師の弟子であり、イラン国内において、特に学生の間に絶大な支持を誇るイスラーム法学者である。以前はハータミー大統領の顧問でもあったが、1999年の「宗教によるテロリズム的命令の違法性」発言が原因で、1年半以上も投獄された経験を持つ。「言論の自由を守る会」というNGO団体の会長も務めている。
  著書に、『シーア派法学における国家論 -イスラームにおける政治思想①』、(1999年、テヘラン)、『統治国家 -イスラームにおける政治思想②」(1999年、テヘラン)、「宗教国家の懸念」(2001年、テヘラン)など多数ある。
(同志社大学大学院神学研究科教授 富田健次)
『2004年度 研究成果報告書』p476-482より抜粋