21世紀COEプログラムによる活動記録

「シリア旅行に参加して」

神学研究科修士課程2年
古森 敬子

ビザ

  シリアに入国するためにはビザが必要である。そのビザを取得するためにパスポートをシリア大使館に提出しなければならないが、イスラエルのスタンプが押してあればビザは発給されない。
  しかし、わたしが昨年作り直したばかりの10年用の真新しいパスポートで最初に訪れたのがイスラエルであった。事情を説明に旅券事務所に赴くと係りの人が誘導してくれて事務所の中に通された。分厚いファイルを目の前で繰り当該箇所を見つけるとこう言った。「1,2年に一回くらいしかこういう事例がないものですから」
  ということはイスラエルとシリア両国に行く人は非常に珍しいということであろうか。「対立国のスタンプが押してあるとシリアではビザが発給されないので、もう一つパスポートを作る必要があります。しかし二つパスポートを作るということは特殊な事例のみに限られているので外務省にその理由を書いた申請書を提出しなければなりません」
  というわけで外務省宛に申請書を提出して帰った。その後飛行機の予約が取れていることが確認できる書類や旅行の行く先すべてを日本語で提出せよ等の連絡が来次第、旅券事務所に足を運んだ。そして外務省からの返事が返ってくるまでに1ヶ月近くかかりやっと新しいパスポートができたとの連絡がきた。
  いつものように中の部屋に(VIP待遇?or取調室?)案内され笑顔の担当者から新しいパスポートを見せられたがそれにはシリア限定の記述が書いてあった。それをみて担当者はあっという顔をしてどこかに消え長い時間待たされた挙句、
「ドバイで乗り換えますよね」
「はい、直通便はありませんから。乗り換えについては提出した書類に書いてあります。でもドバイでは飛行場からは出ませんし、旅行もシリア国内のみです。」
「ドバイに飛行機が着陸した時点で、入国しなくてもパスポートが必要になります。それで、シリア限定だとだめなんです、外務省に申請をし直さないといけないので、またおいで下さい。」
というわけでUAEにも入国できるように一言入れるだけのことにまたまた一ヶ月かかり、8月初めのシリア旅行に間に合うようにビザを申請するタイムリミットギリギリの6月末にやっとパスポートが出来上がった。このために何回旅券事務所に通ったことだろう。「中東戦争」はこんな遠く離れた日本においてもこのような影響を及ぼしているのである。

 

イラクのサッカーチーム

  四戸教授率いる同志社のシリア旅行団は8月2日に日本を発った。わたしはやんごとなき事情により、遅れて途中参加することになった。彼らと合流するところはシリアの北部にあるアレッポという町である。皆はダマスカスからバスで観光しつつアレッポに向かい7日の夜にアレッポのホテルに着く予定であった。わたしは6日に日本を発ち7日の朝にダマスカス空港に降り立った。シリアに入国した後、国内線に乗り換えてアレッポに到着したのが昼過ぎ、空港からタクシーで20分くらいかかりそのホテルに到着した。500SP(シリアポンド、500SPは約1000円相当)で連れていくというタクシーの運ちゃんに、空港でたずねた値段の250SPでないと行かないと交渉の末400,300、と運ちゃんは値を下げていき、250で決着。彼らは倍の値段をふっかけるのだと肝に銘じた。ホテルにチェックインした後、皆が到着するまでの時間をどのように過ごそうかと思っていたら、このシリア旅行を手配してくれたダマスカスの旅行会社の社長が運良く仕事でアレッポに来ており、ホテルで会った後、彼が近くを案内してくれることになった。
  彼が連れて行ってくれたのは別の(大きな)ホテルで、ラウンジで待っていると、イラクのサッカーチームの監督やマネージャー、選手たちが続々と現れた。シリアチームと試合をするために来た彼らのホテルや旅行の手配がこの社長の仕事であったらしく、監督たちと選手のパスポートのコピーを集めだした。彼らと同じテーブルに座ってジュースを飲んでいると、選手たちはユニフォーム姿で立ったまま軽食のサンドイッチやジュースお茶などを取っている。サブコーチが彼らは先日のアジアカップで優勝したんだと言った。わたしはサッカーに関しては門外漢で本当に何も知らないが、ひょっとしてすごいところに居合わせているのではないかと思い出した。とすぐにわたしのミーハーな部分が頭をもたげ、一緒に写真をとってもらってしまいました。(やったー!でもサインしてもらうのは忘れていた)。
  イラクという国や人に対して、なにか得体の知れないこわいものという印象しかそれまで持っていなかったのであるが、実際に人に出会うとそのような先入観はすぐに消え失せてしまった。やさしい笑顔で一緒に写真におさまってくれる選手たちは一人のサッカーを愛する青年でしかなかった。スポーツを通して敵対国という関係を乗り越えられないものかと思った。3月に訪問したイスラエルでタクシーの運ちゃんがパレスチナ問題についてとうとうと語っていたのを思い出した。自分たちユダヤ人はアラブ人たちと隣人としてちゃんと平和に暮らしている、戦いではなく共存の道はないのだろうか、と。そして彼は「力のあるほうが譲れば良いのに」と語った。
  なにはともあれ、サッカーのことを知らないわたしではあったが、急遽サッカーファンとなりしかもイラクファンとなってしまった次第である。(イラク頑張れ!!??)

 

宗教

  シリアはイスラム教の国である。しかし総人口の13%がクリスチャンであるという。旅に同行しているガイドに、シリアのクリスチャンの数が多いのに驚いたと言うと、ここはクリスチャンのオリジナルの国だと言われてしまった。確かにパウロが回心をし、ギリシア語をはなすユダヤ人キリスト者たちの教会ができ始めたのはこの国であった。そしてイエスが話していたというアラム語を当時の形そのままで保存しているマールーラ村もこの国である。ソフィータという町では町の中心がすべてクリスチャン地域でムスリムは周辺だけに住んでいるとのことであった。ダマスカスやアレッポのような都会では十字架のついた教会が多く見られ、バチカンをいただくカソリックと共にシリアンカソリックがあり、また正教も多く見られた。

 

ドルーズ

  ちろん、シリア国内においてほとんどがムスリムであるが、イスラム教について詳しく説明することはわたしにはできないのでドルーズについて聞いたこと見たことを書きたい。
  それまで聞いたことのない名前をガイドの説明で初めて耳にした。ボスラへの道で黒い服を着て頭に白い帽子をかぶっている人たちを見た時だ。イスラム教の一派なのか、全然別の宗教なのか。彼らはコーランとは別の聖典をもち、別の聖人をあがめている。その真の内容は外部の人には漏れないようになっていて、どのような教えなのか外部の人には分からないらしい。ガイドの説明によると彼らは外部の人との結婚を認めておらず、外の人と結婚した娘をだまして帰らせ殺害したという。
  その晩一人でホテルの近くの「アルヒジャズ駅」に行った。現在は駅として機能していないが、昔の建物でアンティークのインテリアが美しく、今は一部がコーヒーショップとなっていた。中に入ると、広いホールでブックフェアを開催しており、そこの受付にいる数人の男の子たちが声をかけてきた。日本から来たというとお茶を勧めてくれて質問が浴びせかけられた。ここのアルバイトをしている青年がダマスカス大学の学生でその友達が遊びに来ていること、今晩の11時半頃流れ星がたくさん降ることなどを教えてくれた。しばらく喋った後、彼ら若者の宗教生活について聞きたくなったので、宗教は何かと質問した。そうするとびっくりしたことにドルーズだと彼は言った。今日ドルーズの娘が殺された話を聴いたばかりであったのでえっと思ったが、彼らは黒い服も白い帽子も着ていない、ジーンズにTシャツの今風の若者たちである。宗教的な生活は何もしていないし、両親もしていないと彼らは言っていた。(ドルーズについて知りたい人はこのサイトを参考にして下さい http://www.druzestudies.org/druzes.html
  とにかく宗教的なことについて詳しい話はきけなかったが、彼らは現代のどこにでもいる大学生たちであり、彼らとの話は実に面白かった。数学の先生をしているという青年は実はパレスチナ難民のための教師であることがわかり、ここでも戦争が大きな影響を及ぼしていることを知らされた。シュワルマ(串に巻きつけた大きな肉の塊をそいだもの)をホブス(種の入っていないアラビアのパン)で巻いたサンドイッチやマテ茶(小さなカップのお湯にお茶の葉を一杯入れ、小さな穴のあいたストローのようなスプーンで吸って飲む)をご馳走になり、代わりに舞妓の写真の絵葉書をプレゼントした。

 

ダマスカス

  パウロの回心で有名なダマスコ(聖書:使徒言行録9章)のことである。光に打たれて目が見えなくなったサウロ(後のパウロ)は「直線通り」と呼ばれる通りにあるユダの家でアナニアに祈ってもらい、目からうろこのようなものが落ちて視力を回復し、それ以後イエスを伝える者となったという場所である。「直線通り」で写真をとったがわたしの前になにやら白い人の影がくっきりと・・・。(パウロさん?)

 

観光地

  約1000年前の十字軍の城塞、約2000年前のローマ支配時の遺跡、そして紀元前2ndミレニアムくらい前の遺跡が主なものであろう。わたしはその最古のウガリットの遺跡を見るのを楽しみにしていた。ガイドの丁寧な説明により当時の様子を思い描くことができたのは収穫であったが、発掘された貴重な物はすべてダマスカス博物館や他国の博物館にあるということであった。
  十字軍が戦いのために建立した目のくらむような断崖絶壁の城砦、数十メートルもある一枚岩を切り取った技術には驚くばかりであったが、それら多くの城砦や教会がすべてイスラム教徒の征服時にはかれらの城やモスクとなり、今日、観光名所となっていることに感慨も一入である。ある町の美術館はどう見ても教会の建物らしいので聞くと十字軍が建てた教会がサラディンの征服後イスラム教のモスクとして使用されたもので、現在はクリスチャンとイスラム教徒で話し合いが行われ、どちらかが取るのではなくどちらも使えるように美術館にしたという話であった。示唆を与えられる話ではないだろうか。サラディンが十字軍の城砦を落とした時に中に住んでいたクリスチャンを虐殺しないでお金を取って逃がした話もなにかほほえましく思える。多くの命を犠牲にした宗教戦争がこの地で長く続いたのは事実である、がそれを教訓にしてこの中東の地から平和への発信がなされないものかと願うものである。