21世紀COEプログラムによる活動記録

House of Mercy -慈悲の家-

41061204 森本 典子

1. はじめに

Shiekh Ahmad Kuftaro Foundations(以下、クフタロー財団と呼ぶ)は、アブ・ヌールモスク、イスラムの教育施設および研究所、そしてアル・アンサール慈善協会などの活動を有する財団である[1]。
クフタロー財団のインターネット公式[2]サイトにおいて、アル・アンサール慈善協会の目的が以下のように記されている。

アル・アンサール慈善協会

I.    協会設立について
アンサール協会を設立する緊急の必要性があった。
協会は、イスラム国家の社会、経済そして理想における欠点を修正することを目的とする。
協会はその存在を、ダアワおよび教育の推進と支援のために経済的な援助をすることの重要性に気付いた尊いシリアの最高権威者の理想と、イスラム国家の未来に負っている。
協会は、Sheikh Ahmad Kuftaroの保護の下、ヒジュラ暦1374年、西暦1955年に設立され、1959年公的に認められた。

II.    協会の目的
A.    聖なる句の実現:
あなた方の中からすべての善いものを招き、正義を享受し、そして過ちを許さないような人々の集団を起こそう。その人たちは至福を得るであろう。
B.    イスラム文化を広め、科学的な思考および非識字根絶のための教育施設を設立することをその目的とする。将来性のある聡明な学生を支援し、良い価値観を広めることを支援する。
C.    慈善活動に貢献し、援助を必要としている人を助ける。
貧しい人や援助を必要としている人を助けるという本来の働きに加えて、アンサール協会は、世界中において説教ができるようイスラム学者を教育する働きにも関与する。

貧しい人々への援助[3] 

これらの重大な責任を負っているにもかかわらず、アル・アンサール慈善協会は、ダマスカスの貧困地域に住んでいる人々のことも忘れはしない。
これらの人々は、その日の食事にも困るほどの貧困をこうむっている。
慈善協会は、アラー以外に助けるもののない貧しい人、未亡人そして孤児たちを援助するために、その収入の多くの部分を割いている。苦難や貧困から人々を救うために協会では、毎月の援助もしている。
万能のアラーは『あなたたちが施す良いものは何であろうと、すべてあなた方自身の魂のためになる。あなた方はアラーの御顔を求めて施すだけなのである。あなた方が施した良いものには何であっても、あなたに見返りがあるだろう。あなた方が施した良いものは完全にあなた方に返されるよう。あなた方は不当扱いを受けることはない』[4]」
アル・アンサール慈善協会は、これらの目的を遂行するための1000人の親のない子どもたちの支援をしている[5]。さらに、その支援活動の一つとして女児のための児童養護施設の運営にあたっている。
異文化研修旅行2日目の2007年8月4日午後、「慈悲の家」と呼ばれるその施設を訪問する機会に恵まれた。


2. 「慈悲の家」

  「慈悲の家」は両親、もしくは片親を失った女児のための児童養護施設である。アブ・ヌール学院のちょうど裏手、道を隔てて続く坂道を少し上がったところにその施設は位置する。現在は改装中の4階建てほどの建物に、2歳から14歳の女児150人が施設の職員たちと生活をともにしている。
  平常、子どもたちは近隣にある学校通っている。学校の行き帰りには大人が必ずついて送迎をする。14歳を超えると施設を出ることになるが、アブ・ヌール学院で学ぶものもいる。シリアで週末となる、木曜日の夜から土曜日までの間、家族のいる子どもたちは、施設を離れ自分の家族のところへ戻ることもできる。
訪問した時期は夏休み期間中のの平日であったため、多くの女児たちが施設に滞在していた。夏休みの子どもたちのプログラムは大体以下の通りである。

8時 ~ コーランの学習
10時~11時 スポーツ
11時~12時半 美術などの活動
食事、休憩などの時間
5時~8時 学習の時間
火曜日は外出日で、遠足などに出かけることもある。
  突然の訪問団にもかかわらず、子どもたちはホールに集まり、来客に歌と踊りを披露してくれた。小さい子どもは一生懸命、大きな子どもは少し恥ずかしがりながら踊っていた。子どもの反応は、どこの国でも変わらないということが興味深かった。さらに、数人の少女が美しい声でコーランの暗誦を聞かせれてくれた。
  また、施設長の部屋には、子どもたちが木の枝にビーズやポップコーンをあしらうことにより花が咲いているようにみえる木の作品が飾ってあった。ほんの少しではあるが、施設における子どもたちの活動を垣間見ることができた。
  この児童養護施設の特徴は、代理家族を形成して生活しているということだ。施設長の話によれば、このようなシステムをとっている児童養護施設は、シリアではほかにはないということだった。
  各家族は14人から16人の女児と一人の成人女性によって構成されている。子どもたちと大人はアパートと呼ばれる居室で生活をともにしている。成人女性は、その家族で母親の役割を担い、子どもたちと寝食をともにする。母親役の女性は固定しており、7日間継続して勤務し、8日目に休みが与えられる。8日目は代理の女性が叔母として勤務する。仕事の内容は、子どもたちの世話と衣類の洗濯に限られている。食事はほかの場所で作って運ばれてくることになっている。施設長をはじめとする職員は女性のみで、その数は42人にのぼる。すべてが正職員で、パート職員はいない。この施設での仕事はパートのような片手間でできるものではないというのがその理由としてあげられ、職員たちの仕事に対する熱心さが伺われた。
  「慈悲の家」に預けられる女児は、先にも述べたように、両親もしくは片親を失った子どもたちだけである。この施設では、親に捨てられた子どもは預からない方針を採っている。その理由は、親に捨てられた子どもたちは、親を亡くした子どもたちよりも心理的な問題を抱えていることが多く、この両者を同じところで預かるのは難しいからだという。抱えている問題の内容の違う子どもたちを同じところに住まわせて、より複雑な環境に子どもたちをおくことを懸念しているようであった。もちろん、親を亡くした子どもたちでも、心理的な問題を抱える子どももいる。そんな子どもたちには適切な心理的サポートをするシステムも整っているということだった。
  現在は、女児のための児童養護施設のみだが、将来的には男児のための施設も設立する予定であるという。

 

3. ヨハン・ヒンリッヒ・ヴィヘルンと「ラウエ・ハウス」

  キリスト教の歴史においても、キリスト教会が社会的弱者に対して責任を負わなければならない思想は珍しいものではなかった。ここでは、1800年代にドイツのハンブルグで「慈悲の家」と同じような養護施設を設立したヴィヘルンの例を挙げてみる。

  ヨハン・ヒンリッヒ・ヴィヘルン(Johan Hinrich Wichern 1808-1881)は、1833年ハンブルグにおいて児童養護施設「ラウエ・ハウス」を設立した。
  当時のハンブルグ周辺には、経済的にも衛生的にも非常に劣悪な環境で生活している子どもたちがおおくいた。子どもたちは、キリスト教の堅信教育を受けることもできず放置されていたのである。それを目にした、ヴィヘルンは、この子どもたちを支援する施設が必要だと考え「ラウエ・ハウス」を設立した。
  ヴィヘルンは、子どもたちが家庭の中で規律正しく育つことが大切だと考えた。そのため、「ラウエス・ハウス」では、代理家族によって共同生活が営まれた。ひと家族には子どもが12人程度で、男女に分けられており、一人の成人が親または兄弟の代わりとなってこの家族の監督をした。子どもたちは、読み書き、計算、歌唱を学んだ。さらに、少年たちは、その仕事としてまず、自分たちの住む家を作り、農作業や薪割りなどの役割を与えられた。少女たちは、手工芸や食事作りの役割を担った。また、ひとり立ちして仕事につく年零日被くと、施設を去る前に自ら作成した品物を販売し、自立するための支度金を準備することもできた[6]。

  「ラウエ・ハウス」は、「(男女の)不良児が堅信礼を受けるにいたるまで、保護を与え、できる限り親の世話の変わるような教育を与えることを目的[7]」とした。
  すなわち、この施設は、単に貧困の中にある子どもたちを有害な環境から一時的に引き離すための宿泊所ではなく、キリスト教的な愛を持った家庭において、新しく生活していく力あたえ、絶えずよくなろうとする決心に結びつけることを目標におくのであった。そのために「ラウエ・ハウス」の働きを「外面的な困窮の救済を、まったく、道徳的な目的のための手段と見なす」のである[8]。
  この「ラウエ・ハウス」の活動を通して、ヴィヘルンは、キリスト教を国教とする国家は、困難な状況にある人々を援助する責任を負っており、また、教会自体もその働きに加わるべきだという考えを持つにいたった。教会の活動は、御言葉の伝道のみではなく愛による行いにも同じように重点が置かれるべきであると考えたのだ[9]。
  このようにキリスト教の福祉的な活動は、当時の社会の中で先駆的な役割を果たしてきたし、現在もなお、その役割を担っている。また、ヴィヘルンの「キリスト教は社会に対して責任を持っている」という考え方は、現在のドイツをはじめとする北ヨーロッパにおけるキリスト教社会の中にも受け継がれている。


4. 終わりに

アル・アンサール慈善協会の理念と「慈悲の家」の活動を見るとき、1800年代後半、ハンブルグにおいて始まった「ラウエ・ハウス」の働きや、それにより得たヴィヘルンの理念とにはいくつかの類似点が見出せる。
  もちろん「慈悲の家」と「ラウエ・ハウス」の方針は、時代の違いがあるため子どもたちの施設での生活状況は違う。とはいえ、施設を運営する基本的な考え方には共通するものがある。まず、両者は、親のいない子どもたち、または親がいてもその役割を果たさない子どもたちを家庭的な環境で育てることを重視している。そして、それだけではなく、子どもたちが一般的な教育のみならず適切な宗教教育を受け、生きていくうえでの指針とすることをも重視している。宗教教育を子どもたちに与えることは、施設を運営する側の宗教的価値観をもって社会に貢献するめの働きを子どもたちに伝える目的もあるだろう。
  イスラム教において、「喜捨」は五行の第三番目にあげられている。これは、富める者は貧しい者に施しをしなければならないという実践項目である。また、キリスト教では「隣人愛」の実践が勧められている。このように、それぞれの宗教は、社会的弱者にたいする具体的な支援を奨励している。イスラム教とキリスト教という二つの違う宗教が、それぞれ、弱者に対して社会的な責任を負わなければなないということを理念にあているのである。この共通点は、時代を超えそれぞれの宗教において重要な位置を占めているのではないだろうか。

  今回の研修旅行に参加して、シリアにおいても、「喜捨」というイスラム教の実践項目が確実に守られているというのみではなく、個人的な行を超え、弱者に対する責任は社会的なものであると考えられている、というこをを確認できたのは大きな成果であった。
  しかし、今回の訪問では、シリアという国家の社会福祉制度、また、その制度と宗教のかかわり、私的な福祉施設に対する公的な支援などについて質問する機会がなかった。キリスト教との比較をする上で、このようなことを調べる機会が今後あれば良いと考える。

 

[1]    アブ・ヌール財団ホームページ  http://www.abunour.net/english/index.html(2007/9/2にアクセス)
[2]    アブ・ヌール財団ホームページ  http://www.abunour.net/(2007/9/2にアクセス)
[3]    アブ・ヌール財団ホームページ  http://www.abunour.net/english/help_poor.htm(2007/9/2にアクセス)
[4]    アブ・ヌール財団ホームページ  http://www.abunour.net/english/goals.htm(2007/9/2にアクセス)
翻訳 森本典子
[5]    同上
[6]    ヴィヘルン、ヨハン・ヒンリッヒ 「ラウエス・ハウス公開的創設」22頁。
[7]    畑祐喜 「序ー『ヴィヘルン著作集』発刊に寄せて」『ヴィヘルン著作集1 インネレ・ミッシオンの創立』
北村次一訳、キリスト新聞社、1984、2頁。
[8]    同上、2頁。
[9]    Foss, Øyvin. Kirkens diakoni i bibleteologisk, historisk og etisk belysning , Århus, AAHUS UNIVERSITETSFORLAG, 1992. s.110,111